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2008年12月28日
餅搗(もちつき)
毎年28日は餅搗の日である。私が雲水時代は人数も多く、お供え用の鏡餅も膨大な量だったので、三升一臼で四十臼近く搗いた。そのために石臼を二つ並べて、三人で搗いた。双方自然に競争のような気分になって、かけ声も勇ましく、臼が踊り出すようだった。瑞龍寺へ来てからも、しばらく臼で搗いていたのだが、近年は人数も少なくなったので、機械でこね回し、餅が出来上がるというやり方である。昔のことを思うと寂しい限りだが仕方ない。さて今日も窓ふき、部屋掃除、つくばい洗いなど、年末大掃除の続きをやった。朝から日が差し風もなく、外で作業をしていても余り寒くなく、快調に片づけ終わった。
2008年12月27日
年末大掃除
今朝は早くから年末大掃除。まずは廊下や部屋、風呂場、台所のガラス磨きである。よくぞこんなに汚れたものだと思うほど、埃や蜘蛛の巣まで張っている。バケツに温水を入れ、使い古しのタオルでごしごし拭い去ると、ピッカピカになった。結局午前中かかってしまったが、磨き上げたガラス窓を改めて眺め直し、気分の良いことこの上なし。いつの年だったか、ばたばたと忙しさに紛れ、年末大掃除ができずに新年を迎えたことがある。このときは少しも新年を迎えた気分にならなかった。やはり寒くとも、頑張って大掃除をしてこそ、気分良く正月が迎えられるわけである。干支の色紙を350枚ほど描くのだが、もうぼつぼつ残り少なくなってきた。毎年350人もの縁ある人に貰ってもらえるのは、本当に有り難いことである。
2008年12月26日
豊川稲荷
毎年26日は豊川稲荷参拝の日である。母は生前、このお稲荷さんを篤く信仰し、自宅の2階の隅っこにお稲荷さんを祀って、毎朝必ず拝んでいた。そんなわけで、一度は本社をお参りしたいと願っていたので、10数年前、母の手を引いてお参りしたことがある。その時、長年の念願が叶ったと言って大変喜んでいた。その後母も亡くなり、しばらくお参りも絶えていたのだが、近年ふと、あの喜んでいた母の顔を思い出し、爾来代わりに私がお参りし、お札を頂いては兄の処に届けて、その小さな社に納めて貰うようにしているのである。お正月前と言うことで境内は閑散としているが、それが却って良く、今年も有り難く参拝してきた。今日は岐阜でも粉雪が舞い、身を切るような北風が吹き抜け、寒波襲来であるが、豊川も同様寒風が吹いて、それは寒い日だった。ちょうど時間もお昼時なので門前の食堂に入って、稲荷寿司を食べた。土産物屋や食堂が軒を連ねているのだが、殆ど人通りもないため、し~んと静まりかえっている。只1件だけこの寒風の中80歳はゆうに超えているおばあさんが、入り口に佇み客を招き入れていた。私もそのおばあさんに引き寄せられるように店内に入った。その通りを歩いている人は殆どこのおばあさんに惹かれて店に入ってくるのである。商売熱心と言ってしまえばそれまでだが、このときふと母のことを思い出した。うちも商売屋だったから、このおばあさんと同じように、一日中駒ネズミのように働いていた。何だか食べた稲荷寿司まで特別美味しいような気がした。
2008年12月23日
灯夜
僧堂では臘八後の灯夜は楽しみの一つである。普段は雁字搦めの規則ずくめで縛られているから、その反動で無礼講の灯夜は時に馬鹿騒ぎをして、踏み外すこともある。難行苦行が終わって直ぐに同じ禅堂で、今度は一転乱痴気騒ぎなのだから、その部分だけ見ると誤解されるおそれがある。こういうのは実際に僧堂で修行したものでなければ解らないことだ。近頃は昔と違って、馬鹿騒ぎはなくなってしまったが、我々の頃はいろいろあった。こういうのも時代の反映で、今は今流になるのも止むを得ない。把住と放行(ほうぎょう)、いずれも徹底してゆくのが修行者のやり方だ。「尺取り虫の屈するは伸びんがためなり」、どちらも馬鹿みたいにやり抜くのが肝心なのである。
2008年12月21日
KY
今日も午後どんより曇った中、権現山(ごんげんやま)まで往復してきた。総門までやってくると若い娘が数人嬌声をあげている。何事かと見ると、参道をバックにいろいろなポーズで写真を撮っているのだ。中国の人たちである。岐阜の地場産業であるアパレルは、近年衰退気味ではあるが、中国から研修生という名目で、相当な人数働きに来ている。今日は日曜日、会社がお休みだから仲間と連れだって市内見物に繰り出し、たまたまうちのお寺に来たのだろう。参道は約100メートルはあり、左右に計6ケ寺シンメトリーに立ち並んでいる。境内は人っ子一人おらずし~んと静まりかえっている。たぶん日本人ならこういうところできゃ~きゃ~黄色い声を当たりはばからずやらないだろうと思った。つまりお寺に対する畏敬の念のようなものがあって、自然に雰囲気に順応してゆくだろうと思ったのだ。この娘達に、不自然で違和感を感じ、まったくその場の空気が読めていないのに驚かされた。多分この世代では、お寺にお参りすると言うこともなかっただろうし、その親たちにしても殆どお寺には無縁で育ったに違いない。しかし人のことばかりは言えぬ。ヨーロッパへ行き、教会にお参りした時など、「しっ!」と注意を受けたことが何度もあった。文化の違いと言ってしまえばそれまでだが、特に宗教施設の場合はお互い余程注意しなければならない。
2008年12月18日
お歳暮
12月に入ってお歳暮のシーズンインである。毎年のことながらご縁のある方々より心の籠もった品々を拝受し、ご配慮には頭が下がる。しかし面白いことにお歳暮の遣り取りは必ずしもご縁の深浅に依らないと言うことである。相手の気持ちをこれで全て計るというのはいささか行き過ぎだが、特に僧堂のように在錫期間がまちまちで、その後の人生もそれぞれという場合は、いろんな意味で興味を引く問題である。さて品々の大半は雲水の処へ直行となる。尼僧堂もあるので、いくら頂いても余ることはない。それでみんな喜ぶのだからこんな嬉しいことはないが、お礼状や返礼の色紙を送る役目は専ら私の仕事、いや~、これが毎日の労働で、愚痴を言っては罰が当たるが、結構しんどい。こんなことを思いながら、ばたばたやっているうちに大晦となるのである。これも元気で修行を続けていられるお陰、感謝で一杯である。
2008年12月17日
権現山(ごんげんやま)
このところ毎日権現山まで登っている。と言ってもたいした山ではなく、小山というところ。手前に一つ大きな谷があるので、往復するには上り下りが合計4つあるので、ほどよく厳しく、1時間15分、一汗掻いて体を拭うと心地良い。山道は厚さ数センチほどびっしり落ち葉が覆っていて、ザクザク踏みしめて歩き、時折りわずかな風に、はらはらと枯れ葉が舞い落ちる風情はなかなかなものだ。特に冬場は部屋に引き籠もりがちだから、意識的にこの山歩きを実行している。愛犬ハチは今年、人間の年齢でいくと80歳くらいになる。寺では一番の長老になった。横顔が特に老齢化を感ずる。散歩のときなど、ちょっとした崖を飛び越えるのに腰砕けになったりして、「あ~あ~、ハチもおじいちゃんになったんだな~!」と思う。しかし食い気だけは依然として衰えず、野良猫用にあっちこっちに置いてある餌には、猛烈な勢いで突進、止めさせようと引き綱を引っ張ると、四つん這いになって餌に食らいつく。その凄まじいことと言ったらないのだ。まだまだこれなら後数年は生きるだろうな~、と思っている。
2008年12月14日
女神の微笑み
先日3人でこの寒空の中、スケッチに出かけた。出立の頃はまあまあの天気だったのだが、しばらく走っているうちにどんより薄暗い雲が覆い被さって、今にも雪が降り出しそうな気配。最初の予定では郡上八幡方面へと計画していたが、これではとても無理と諦め、急遽多治見の修道院でも描こうと言うことになった。高速道路のインターに進入し左右に分かれるところで、何を勘違いしたか右に曲がらず左に切ってしまった。これは郡上方面への道である。しまった!と言ったときにはすでに遅く、引き返すわけにも行かない。その時、私は即座に、「女神の微笑み!」と言った。これは失敗ではなく、女神が、こっちこっち、と引き寄せたのだ。案の定、やがてどんより曇っていた天気は、からりっと晴れ渡り、スケッチには絶好の日和となった。つまり物事はいつも良い方に良い方に解釈してゆけば、失敗しても腐らず、やがて明るい展望が開けてくるものである。小石に蹴躓いて生爪はがして痛い思いをした時でも、嗚呼これで良かった、間違っていれば骨折していたかも知れないと考えれば、この程度ですんで良かったと言うことになる。それをはがした生爪の方ばかりに気持ちが行けば、後悔だけがいつまでも残って、暗い気持ちになる。ものは思いようと言うが、まさにその通りで、私はどんなことがあってもいつもこれで良かったのだと思うことにしている。これを「女神の微笑み」と、自分勝手に命名しているのである。
2008年12月13日
庵原の平四郎
会下の寺で先住さんが亡くなられ、その津葬に出かけた。住職も弟子も、うちの僧堂出身で、そんな縁で清水まで出かけたわけである。駅まで和尚さんと総代さんが出迎えてくれた。車中寺までのわずかな間、或る集落にさしかかると、「ここが臘八示衆に登場する庵原の平四郎の生家が現在でもある処なんですよ。」と仰る。これには驚いた!その地の地主さんで、大変豊かなお家だそうで、近くの山に落差数メートルの滝も残っていると言う。現在では殆ど水も枯れて、示衆に書かれているようではないそうだ。明後日からはその臘八大接心があり、五日目には平四郎が登場するところをやるわけで、思いがけず近くを通ることが出来、何だか不思議な巡り合わせを感じた。もう30数年も前になるが、原の白隠禅師の寺で、200年忌報恩大接心が催され、雲水で参加したことがある。そのときも感激したが、今日もその白隠禅師の示衆に登場する庵原の平四郎の生家近くを通ることが出来るなんて、本当に良い日だった。
2008年12月09日
般若会懇親会
22年目の般若会も無事に円成、昨夜は今年度終了の懇親会が催された。そのときの話。『先日神戸製鋼所元会長のK氏の話を聞いた。72歳で会長職を辞し、さてこれからの老後をいかに過ごすか考えた結果、薬学の勉強を一から始めると決意したそうだ。まずは孫娘の高校の化学の教科書を借りて勉強を始め、今年82歳で薬学博士号を取得したと言う。今後更にこの研究を究めたいと意欲を燃やしておられた。夢を追い続ける青年のような話ぶりにも驚かされたが、老いてなお探求心を持ち続ける精神の若さには頭が下がる。72歳になって今までの仕事とは全く違う分野で、ゼロから始め、ひたむきに努力を積み重ねてこられたわけで、この方の爪の垢でも煎じて飲まなければと思った。老化現象顕著な私は、近年いささか弱気になって消極的な考えに陥っていたが、K氏の話を聞いて心が洗われるような気がした。人間、年を経、たとえ肉体は衰えても、心の持ちよう一つで、どんなにでも若々しく生きることができるのだと、改めて思い知らされた。』
2008年12月07日
窮して変じ、変じて通ず
午後から岐阜駅高架下の教室で定期的に開かれている勉強会に出かけた。数年前より有志が立ち上げた会で、私も仲間に入れて貰っている。今日は「易経」。『易窮まればすなわち変じ、変ずればすなわち通じ、通ずればすなわち久し。ここをもって天よりこれを祐く、吉にして利(よ)ろしからざるなきなり。』 師匠は生前繰り返しこの一節を言い続け、また色紙などにもよく書かれていた。易というと一般には「当たるも八卦(か)当たらぬも八卦」と言うが、易の世界、しらべてみるとなかなか深い。六十四卦の中の〔乾為天(けんいてん)〕について学んだ。何事も未熟なうちは確乎不抜の志で頑張る。徐々に世に認められるようになると見る力もつき、逆に人からも見られるようになる。また良き出会いもあり、他人の意見もよく聞き、師匠に従い、ひたすらコピーに徹する。やがて機を見、物事の仕組みの壺を知り、淵より躍り出た竜のごとく飛龍となって天に昇る。しかし盈つれば欠くるで、この世に不変なものなど何一つ無いのだ。だからその覚悟で、常に身を慎み、自分を育て人を育て、天の法則に従って生きることである。とまあ、ざっとこんな講義だったような気がするが、今メモを見ても話があっちこっちに飛んで、なんだか解ったような解らないような、未消化のうちに終わった二時間であった。ともかく人間の心の在り方の指針となるものである。
干支
最近はカレンダーを見ても西暦何年という表示が主流で、平成何年というのが少なくなった。ましてや、平成二十一己丑歳、という表示はほとんど見られない。十二支の方はまだ、「あなたは何年生まれですか?」、「午」です、「丑」ですとかと言うことがあって、日常的にも話されるが、十干の方となるとほとんど話題にも上ることはなく、還暦の時に持ち出されるのが関の山である。十干とは甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の総称で、おのおのに陽すなわち兄(え)と陰すなわち弟(と)をあて、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)などと言う。十干と十二支を組み合わせて用いられ、還暦とはこの組み合わせが一巡してまた元に戻るのが六十年、第二の人生の始まりというわけである。まっ、こんなことは今更申し上げるまでもないことで先刻ご存じと思うが、世の中いろいろで、知らない御仁も居ることがごく最近解ったので、敢えて書いたわけである。ところがこの還暦も、人生八十年時代ともなると、よくぞここまで生きてこられたものだ、などと思う人は殆どいなくなった。従ってこの還暦の意味も年々薄れてきたようだ。私なども還暦を迎えたとき、人生これからが本番、思う存分やれるな~と感じたものである。だからお祝をするなら、八十歳まで無事生き長らえたら、盛大にしようと思っている。
2008年12月05日
生涯学習
定年退職後は夫婦二人きり、南向きの隠居所でも建てて、のんびり過ごし、たまには二人で温泉巡りにでも出かける、これが老夫婦の理想のように言われる。確かに家庭を守るため、子供を立派に育てるため、辛い宮仕えにも耐えて頑張ってきた。せめて老後はのんびり過ごしたいというのはよく分かるが、こういうのは大抵失敗する。夫婦はお互いが向き合うと、最初あばたがえくぼに見え、やがてあばたがあばたに見え、最後にえくぼがあばたに見えてくるそうだ。だから向き合ってはいけない。のんびり温泉巡りなんかしたら途端に喧嘩が始まること請け合いだ。生涯学習の意味はここにある。お互い好きな道で、より高い知識を求めることが、夫婦の日常の些細な事柄に気を奪われ、転ぜられることを防ぐことになるのである。つまり隣に佇みながら、お互いが高い知識に目を向け、そこに生き甲斐を見つけてゆくことで、老後の充実した生活が得られるというわけである。と、結婚してない私が言うのも何ですが、以上はある薬科大学教授のお話の受け売り。