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2009年01月31日
世界平和
雪安居(せつあんご)も今日が最後の日、午後3時半から隔宿諷経、6時から総茶礼があって、行事の全てが終わる。ほっと一息である。今日はやや曇りがちの天気ながら気温は14度と暖かいので、久しぶりに伊奈波神社へ散歩がてらお参りに出かけた。土曜日と言うこともあって普段より人出があって、家族連れや夫婦ものなどひっきりなしに行き来している。本殿前35段の階段を上がり掛けたとき、先着の若い夫婦がお参りを済ませて下ってくるのとすれ違った。男曰く「何をお願いした?」、女、真顔で曰く「世界平和!」だと。男曰く「偉い大きな事を願うんだな~。」ごもっともである。一瞬ほんまかいな!と思ったが、普通の顔して言ってた。私は先ず自分の健康、次に僧堂の安泰を願ったが、ふと、自分のことばかりではいかんかな~、と頭をよぎった。先日長らく使っていたデジカメが古くなったので親戚の者にお下がりでやった。そこで新式のを買い一応動くようにセットしていざ何かを撮そうと思うのだが何もない。そうだ久しぶりにハチを撮ろうと、日向ぼっこ中の所へ行った。「ハチ!はいチーズ。」と言ったら、大あくびをして終わり。一週間ぐらい前から腰痛に悩まされている。ちょくちょくあることなので、またか!なのだが、連日いつもお世話になるN治療院に通っている。特に私は電気針が効果的で、お陰で殆ど治った。冬はよくよく注意しているのだが、突如として襲ってくる。世の中には腰痛など全く関係ないという人が居るが、羨ましい限りである。
2009年01月30日
ば増し150円
今日は午前中用事で出かけ,丁度昼時分になったので美味しいという評判のうどん屋に入った。味噌仕立ての鍋焼きうどんをふうふうやりながら、大汗掻いて稲荷寿司と一緒に食べた。ほっと一息ついて壁を眺めると、品目一覧が板に書かれ、幾つもぶら下がっている。見るともなく見ていると、「大盛りば増し150円」という札があった。だいたい意味は分かる、要するにうどんを大盛りにすると150円余計に掛かりますよと言うことである。しかし分からないのは「ば増し」という部分である。評判の店だから、この店独特の「ば増し」というのがあるのかも知れないと思い、傍らに立っていた店員に聞いてみた「この、ば増しというのはどういうのですか?」すると、「あああ~これですか、はと書くところを間違えて点を打ってしまっただけのことですよ。」だと。とほっ!つまり大盛りは増し150円というわけだ。バカみたいな話で失礼しました。話題はがらりと変わって、楽しい話はいくらでも人は聞いてくれるが、愚痴や悩みは余り歓迎されない。私なども一人者だから、ときに愚痴の一つも聞いて欲しいと思うことがあるが、大抵は嫌がられるのが落ちだ。本人の側から言えば、聞いて貰っただけでも気が休まると言うことだが、聞かされる方は堪ったものではない。これが本音である。しかし唯一そうではない人が居る。それは夫婦だ。夫婦は長い年月共に戦ってきた戦友であり、苦楽を共にしてきたこの世で最も信頼の置ける仲間なのである。相手のどんなに辛いことも我が身に置き換えて生きてきた良き相棒なのである。それ以外の人はこの世に誰もいない。この覚悟も出来ていないのに、最近は直ぐに離婚するが、一人で生きる孤独を心底味わった者でなければ、この覚悟は出来無いと知るべきである。
2009年01月25日
金融恐慌の本質
先日地元の新聞を読んでいたらある高名な仏教学者が表題のごとき文章を寄せておられた。内容をちょっとご紹介すると、「・・・金融恐慌、通貨危機、百年に一度の大暴風、いささか大げさな言葉がちまたにあふれ出している。けれどもその「金融恐慌」と言う名の妖怪の本質は「無常」と言うことである。諸行無常の無常である。この世に常なるものは何一つない。持続可能な永遠など単なる虚妄のたわ言にすぎない、そういう認識である。しかしこの無常から実は明るい旋律も聞こえてくる。山川草木自然は変化と蘇生を繰り返し循環を止めないということだ。死と再生のリズムである。我々の人生も社会も浮沈を繰り返しこの循環の軌道に乗っている。何も慌てることはない。いたずらに騒ぐ事なかれ、そんな天の声も聞こえてくる。しかしユダヤ・キリスト教文明、アングロサクソンの西欧社会では、この危機を乗り越えるための生き残り戦略が最大の関心事で、それに対して無常というアジア的精神は虚無的な思想と映っている。我々日本社会までがアングロサクソン流生き残り戦略の傘の下にすっぽり包み込まれ、荷担することに夢中に成りすぎてはいまいか。直面する緊急の問題に対処すること以上に、われわれ自身の道徳的な性格にかかわる大きなテーマでもあるはずだ、と指摘しておきたい。」以上が論点の要約である。いささか堅苦しい話になったが、私にはそう言う難しいことはよく分からない。単純に苦しいときはお互い助け合ってじっと我慢し、またいつかきっと照る日もやってくると信じて頑張るだけではないのかな~と思っている。
2009年01月23日
苦修
1月15日から1週間、制末の大接心も無事円成した。翌日把針灸治の心地よさ、これは僧堂で修行したものでなければ絶対に分からない。別にご馳走が出るわけでもなければ何もない。日中作務がないと言うくらいだが、これだけで実に爽やかで心は晴れ晴れする。何故なのか?苦しむからである。人間の欲望は際限がない。もうこれで充分と言うことはなく、歯止めが効かないのである。だからどこかで、ぎりぎりまで苦しむと、普通のことが有り難く思えるのだ。昨年来、世の中は百年に一度という大不況に見舞われているそうだが、結構なことである。平和ぼけ豊かさぼけに、天が鉄槌を下したのである。豊かさの陰でどれほど大切なものが失われたことか。親に孝行などと言うのも失われたものの典型で、昔は親を少しでも楽にさせたいと子供は懸命に働いたのだ。それでも尚、「親孝行したいときには親はなし、墓に布団も着せられずれず・・・」と言った。しかし近頃は、「親孝行したくないのに親は居る」になった。自分のことだけで、後は知ったことか・・・・、である。罰が当たるに決まっている。私は豊かさを否定しているわけではない。貧乏より豊かな方が良いに決まっている。しかし只漫然とその中に浸かっていては、本来の人間性を失うと言いたいのである。こういう時代だからこそ一層苦修の価値があるのだ。
2009年01月20日
梅一輪
私の居室窓から数本の梅の木が見える。ついこの間までは蕾も小さく、これでは当分開花は先だな~などと思っていたら、昨日の雨で急に膨らみ、はっきり花の色まで解るほどになってきた。この寒気の真っ只中で、よくぞ頑張るものだ。梅のたくましさはつとに知られるところだが、日に日に開花に向かって驀進中の様を見るに付け一層感じ入った。ところでうちの寺の山門をくぐると正面に梅の巨木がある。この梅の木は昭和20年7月岐阜空襲で寺の伽藍と共に消失した。焦げた切り株だけが無惨に残り、周囲からは殆ど忘れられたのだが、20数年後、その梅の株から1本の芽が出た。やがて幹が出来枝が張り、ついには戦前の巨木に蘇った。毎年3月中旬頃紅梅が一斉に咲きそろう。10数年前伽藍再建の折り、一番目立つ位置に移植したのである。参道正面からも見えるため、多くの見学者が眺めてゆく。近くには梅林公園もあるので季節にはいつも早朝花見に行く。数百本の梅の香りが辺り一面に広がる梅林に一人佇むと、実に幸せな気分になる。特に開く寸前の白梅の蕾が最も美しい。ぴ~と張りつめた冷気が一層梅にふさわしく、桜の花見より私は好きだ。
2009年01月17日
阪神淡路大震災
今朝は大震災から14年目、私はその時、伊深で臘八大接心中で、思わず外へ飛び出そうと思うほどの揺れだった。禅堂に詰めていたから世俗のことは全く解らず、寺に戻ってからテレビや新聞で惨状を知った。それから3ケ月後、孤児になっていたハチを神戸の動物救護センターへ出かけ貰い受けてきた。だから今日はハチにとっても大切な日で、神戸に向かって合掌させようと思い、両手を持ち上げたら「ウ~!」と唸ったので止めて、しばし黙祷させた。本人は全然解ってない。当時、生まれたばかりで両手の平に収まるほど小さかったハチも、今では人間年齢で数えると80歳は超えるほどになった。地震は人ごとではない、いつ我が身に降りかかってくるか知れない。火事や泥棒と違って注意のしようがないから、起こった後どうするかを今から考えて、防災グッズを揃えたり、テントを購入したり、建物の補強をしたり、それなりに最低限準備をしている。数年前のこと、新しく町内会長になったやる気満々の方が寺にやってきて、大地震の折りには是非お寺を避難所に提供してくださいと言われた。それは良いが、地震になったら一番に潰れてぺちゃんこになるのはお寺だよ。あなた方の家の方がピンシャンしてるだろうから私の方が避難所にお願いしたいくらいです、と申し上げた。本堂でも庫裡でもお寺の建築は頭でっかちで、やたら屋根が大きく、その割には壁面が少ないから地震には最も弱い構造である。そんなことを心配していたらきりがないので、まっ、その時はその時だと腹をくくっている。
2009年01月16日
筧(かけひ)
茶室前の蹲踞は檜の丸太の上部をくり抜いて水路を付けた物で、長さは3メートルくらいあり、、自然に水が絶え間なく流れるようになっている。ところが鬱蒼とした木々から落ち葉が舞って切り込みの溝はたちまち塞がってしまい、蹲踞に到着するまでに途中で水がこぼれ落ちる。そこでしょっちゅう溝掃除をするわけだが、それはいつも私の役目、これが結構しんどい。一計を案じ、溝にゴムホースを伝わし、上を杉皮で覆い見栄え良くした。これなら掃除は不要となり調子良いわけで、ばっちりと思っていた。ところが数年後、杉皮がぼろぼろになつてゴムホースがちらちら見えだした。これは不味い、さりとて簡単には杉皮は手に入らぬ。そこで日曜大工店に出かけ探したが無い。それに代わる物をと店員に聞くと、代用品で人造杉皮がありますと奨められた。やはり自然の物と比べるとイマイチだが、取り敢えず買ってきて一応全て筧を覆い、何とか格好が付いた。植え込みの間を縫うようにしての作業だったから体中落ち葉だらけになったが、まことに調子良い。時々流れる水を眺めながら一人悦に入っている。
2009年01月15日
祝聖(しゅくしん)
今朝は午前2時半起床、軒につるした寒暖計はちょうど零度、部屋の窓を開け放ち掃除機をかけて埃を全て吸い取る。空気まで澄んで誠に気持ちよし。洗面を済ませ法衣・袈裟をつけて机の前に座ってじっと大鐘の鳴るのを待つ。この間日誌に気温を記入、今日一日の用事をメモして忘れないようにする。やがて半鐘が鳴り本堂へ出頭、大きな声を張り上げて祝聖のお経を読む。その後、総茶礼・坐禅・喚鐘・日転掃除・粥座と続き、一息入れ講座となる。開け放った本堂では身を切るような寒風が吹き抜け、体も手もこちこちに凍る。隠寮廊下には点々と血の跡、これは隠侍のあかぎれから滲み出たもので、嘗ての雲水時代を思い出し心が痛む。しかし脳天に染み入るような寒気がやって来ると、不思議に元気がもりもりと沸いてくる。永年の習性となっているのかも知れない。こんな時縮こまっていたら、とても僧堂では居れん。休憩時間にあたる焚き火の暖かいこと、顔も手も真っ赤っかに火照ってくる。火がこんなにも有り難いものかと、改めて思う。これからしばらくはこの繰り返しだが、梅は寒気を経て芳香を放つである。
2009年01月13日
雪
昨日は山内K寺で松尾流家元をお迎えし稽古始め、ちらちら雪の舞う中出かけた。点心も頂いて寺に戻ったのが11時半、午後から裏山歩きにでも出かけようと思ったが止めた。何せこう寒くては意欲も沸いてこない。今朝もひどく寒いと思っていたら猛烈な雪、ハチの散歩中も眼の中に雪が入ってまともに開けていられないほど、体の前面は雪だらけになってしまった。僧堂は常飯日のため雲水は降りしきる中、自転車こいで颯爽と出かけた、本当にご苦労さん。ところが積雪10センチになるころ急にやみ、一転今度は晴れ上がり、たちまち解けて無くなった。午後から近くの歯医者へ出かけ、年末に外れてしまった差し歯を作り替えて貰った。今日ようやくそれも治り、久しぶりに快適に物が食えるようになった。食事の度に違和感があったので、これで安心。その後近所の整形へ行き、慢性的腰痛の治療を終え帰ってきたというわけ。これらは全て前期高齢者の標準的コースである。
2009年01月10日
家元初釜
今日は名古屋へ家元の初釜に行ってきた。いつもはOさんの車に同乗させていただいていたのだが、ご本人が老齢化で膝が悪くなって、茶室での正座が無理、御無礼するというので、私一人電車で出かけた。11時からの席入りだったが、何と7人全て男ばかり、これは珍しいことである。そもそもお茶は男が専らたしなんだもの故、この雰囲気が原型なのである。まず家元がお濃茶をたてられた。やはりお茶は濃茶に限る、味と言い香りと言い実に良い。次に席が変わって、今年からいつもの薄茶席で点心となった。お節料理に雑煮、美味しいお酒を飲んで良い気分になったところで、家元の妹さんのお手前で薄茶が振る舞われた。お道具類も掛け軸も全て新年にちなんだものばかりで、こういうのも初釜の雰囲気が出ていて、晴れがましく良いものだ。いつもと違って、気楽な話し相手が居らずちょっと寂しい気もしたが、家元席は何辺もお邪魔しているので、慣れていることもあり、楽しくひとときを過ごすことが出来た。私のような伊深育ちの山猿が有り難いご縁を頂き、毎年正月にこうしてお招きを頂くのは望外の喜びである。
2009年01月09日
水道工事
うちの寺には水道用のタンクと井戸用のタンクが二つある。井戸水は鉄分が多く飲用には適さないので、専ら水洗トイレや散水・洗濯などに使い、飲用は全て水道でまかなっている。ところが数日前より私の部屋の風呂の水がにわかに濁りだした。はじめは風呂釜の故障でさびが出てきたのかと思ったが、どうも原因はそれではなく、水道タンクに井戸水が誤って入ってしまったと言うことが分かった。昨年暮れに水道工事をして、万一ポンプが一台故障したとき、もう一台のポンプがバックアップするようにした。その際どう配管を間違えたのか、綺麗な水道に汚れた井戸水が混ざってしまったのだ。少しぐらい飲んだからと言って命に関わることではないが、水道工事屋の杜撰さにはあきれた。これがガスや電気だったら大変なことになる。以前ある人と話をしていたときこんな事を聞いた。ペンキ屋と水道工事は誰でも直ぐに始められる商売だそうだ。多少塗り損ねても塗り直せば済むし、いい加減な工事でも水は漏れれば直ぐ分かるからだ。その点ガスや電気は大事故に繋がりかねないから、それなりの資格がなければ駄目なのである。ふと、お坊さんの世界はどうだろうかと思った。禅宗では一定期間厳しい修行があって、初めて和尚さんになれるわけだが、近年は極めて安直に資格を与える傾向にある。まっ、お坊さんの場合はいい加減なお経を読んでも、大事故に繋がると言うことはないので何となく済んでいるが、こういういい加減さはボデェーブローのように、じわじわ効いてきて、最後にバタン!ということもあるので、宗門全体で真剣に考えなければならない大問題だと思っている。ところが長年の体制下にどっぷり浸かって、イマイチ危機感がないというのが何とも歯がゆい。いやはや、水道工事屋に文句を言っているうちに、とんだところへ話がいってしまった。
2009年01月08日
腎動脈瘤造影
健康診断のことばかり書くと、またか!と言われそうで、いかにも小心者丸出しという体だが、何事も嘘を言うことは嫌いな性分だから書きます。今日はペット検診で指摘されたこぶの大きさを測るために造影剤を入れて撮影してきた。7ミリ、と言うことで問題なし、写真を見ると小さなこぶ状の膨らみがばっちり写っていた。3年間全く大きさに変化がないので石灰化し、固まったのかも知れないという話である。私も前期高齢者仲間入りしてからは、ざっと数えただけでも数カ所、傷んできた。年相応と言うことか。ところで今日検査の時点滴針が上手く刺さらず、3ケ所ぶすぶすやってお手上げ、別の科の看護婦さんに交代、ようやく刺さる。看護婦さん曰く、血管はなかなかのものだが、筋肉の奥に入り込んでいるため相当難しいというのだ。そこで一言、日々筋トレで腕を鍛えてますので・・・・。お見受けするとお坊さんですが、筋トレが修行に関係するんですか?しません!これは私の趣味です。なっとく!てな遣り取りがあった。
2009年01月07日
携帯ストラップ
またハチのことを書くのはいささか気が引けるのだが、今日思いがけずソフトバンクお父さん犬の可愛らしい携帯ストラップをプレゼントされた。知人のお嬢さんで、かねてより私のブログの愛読者だったようで、以前ハチがソフトバンクの犬と評判だと書いたのを覚えてくれていたのだ。このストラップ、見れば見るほどよく似ている。お腹の辺りを押すと、「こらっ!会社に行け!」「どこをほっつき歩いてんだ!」「今日はそこまで!」「親父!番号!」、と言うへんてこりんな声がする代物で、なかなか面白い。私の携帯はドコモだが、早速括り付けてみた。なかなか良い。ついでに申し上げると、失神後のハチはすっかり元気を取り戻し、散歩もいつもの通りしている。日向ぼっこは午前中のみとし、午後からは小さな毛布を背中にマントのように括り付け、日陰で丸くなって寝ている。昨日は12月のペット検診結果報告が有り、如何ん?とドキドキして行ったが、特別異常なしでほっと安堵の胸を撫で下ろした。私は通常の人間ドッグとこのペット検診を交互に受けているから、結局半年ごとにドック入りしているわけで、人からはちょっと神経質過ぎじゃありませんかと言われたり、生死を解脱しているはずの禅僧が何たることか!などと、すこぶる評判は悪いのだが、これで本人が満足しているのだから、端からごちゃごちゃ言うない、てなもんで、他人の意見は無視しているのである。
2009年01月04日
「ハチが~!」
ぽかぽか陽気に誘われて午後、伊奈波神社へ初詣に出かけた。今年は4日が日曜日のため、まるで三が日のような混み具合、東宮司のほほえむ顔が目に浮かぶようだ。お参りも無事済ませお札も頂き、おみくじも引いて大吉、少々汗ばみながら寺に戻ると、おばさんが血相変えて、「ハチが~!」と言った。「どうしたの!」と問うと、日向ぼっこから台所の定位置に戻り、腹這いになっていたかと思ったら、突然ごろごろ腹這いのまま階段を2段ほど転げ落ち意識を失い、おしっこが漏れ出て伸びてしまったというのだ。すわ一大事!「救急車を・・・!」と思ったが、こりゃ~まずい人間じゃないから・・・、かかりつけの医者に電話、全然繋がらない。そりゃ~そうだ日曜日だもの。そうこうしている内にむっくり自分で起きあがり、また元の定位置で腹這いになったという。その直後私は戻ったのだが、すでに何事もなかったかのような様子だったが、心なしか顔色も勝れない。ともかく事なきを得てほっと安堵の胸をなで下ろしたというわけである。ハチも人間で言えば80歳を過ぎて、立派な後期高齢者である。終日日向ぼっこがどうも良くないらしい。というわけで、一瞬肝を冷やしたという顛末。毎度ハチのことばかりで親バカちゃんりん、全く恥ずかしい限りだが、ご寛恕のほど。
2009年01月03日
謹賀新年
新年明けましておめでとうございます。旧年中は勝手なこと書きたい放題書きましたが、見放さずご愛読いただき有り難く御礼申し上げます。さて今年もあっという間に三が日が過ぎてしまいました。お寺によると、新年早々年始の客がどっと押し寄せると言うところもあるようですが、うちはいたって閑散としており、来客は合計で10人程、のんびり過ごしました。年末の慌ただしさが嘘のようです。お天気も良く、比較的暖かく良いお正月を迎えることが出来て幸せでした。さて毎度ハチ君のことで申し訳ありませんが、大将には盆も正月もありません。元旦早朝、いつものように、真っ暗闇の中散歩、先ず鯛焼き屋の軒先のタイのかけらを拾い食いするところから始まって、商店街を経巡りながら、次々に拾い食い、そうさせまいと引き綱を引っ張る私と激しい攻防を繰り広げ、一時間の恒例散歩は無事円成。これを一年間毎日やるのかと思ったら、たいてやない。世の中は百年に一度の大不況に突入、ますます厳しい時代になるようですが、逆境にめげずじみちに歩んでゆく覚悟が必要です。そのためにも是非坐禅を組んで、しっかりした自分を作って欲しいと念じています。