2009年03月20日
瞑想
「瞑想はあの世との交流」、目を閉じて静かに考え、現前の境界を忘れて想像を巡らすことである。今日は春彼岸の中日、朝からひっきりなしにお墓詣りの人達がやって、境内も賑やかなことだ。うちの寺には一般在家のお墓はないのだが、山内寺院の墓地が西側裏にあって、そこへお詣りに来るのである。少し風は強かったが、朝から晴れ上がり、お詣り日和であった。さてお墓詣りは先祖との交流だが、瞑想も先祖との交流である。だから我々のように日々坐禅を組んで瞑想している者は、毎日先祖にお詣りしているのと同じである。これで良いのは、目前の利害損得から離れ、客観的に自分のありのままの姿を見ることが出来ることだ。私たちの日常は如何に身びいきなことか、自分の嫌なことには目をつぶって、手前勝手、自分に都合の良いように思いたがる。我が身の真実を見ることは実に苦々しいことなのである。坐禅を組んであの世と交流すると、そんな現世の有象無象などすっ飛んで、素直にものを見ることが出来る。まっ、坐禅の本来的意味はそれとは少し違うのだが、副産物としてこういう事もあるというわけ。と言うことは現代人は日々の忙しさに紛れて、自分をじっと見つめることを殆どやっていないということである。ここが一番問題で、だからせめてお彼岸にお墓詣りして、先祖と向き合い自分を振り返るのである。
投稿者 zuiryo : 2009年03月20日 21:03