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2009年04月28日
スケッチ
久しぶりに仲間4人、車に同乗して1時間ほど、八百津のダム湖へスケッチに出掛けた。予報では快晴のはずが、時折ぽつりぽつりと小雨も降ったり、更に北風が激しく吹き抜け、とんだ日和になってしまった。それでも一応春の日差しが差し込み、まあ、何とかこれぐらいなら続行可能と、イーゼルをセットし、スケッチブックをしっかり固定した。さて、構図は手前に湖を少々入れ、対岸の木立に見え隠れする家並み、背後の山を描き入れると決まる。私の流儀は、常に先生の側にくっついて離れず、横目でちらちら見ながら、専ら真似て描いていた。しかし今後は宗旨を一転、独立独歩、すべて自力でやると決めた。取り敢えず鉛筆でのスケッチは合格、次は問題の色づけ、これが相当難しいのだ。結果はまるで駄目!緑色の山を緑色で塗ってしまった。素人はこういうとき、何故いけないのですか?と問うが、そこがプロと素人の違いである。新緑に映える山をもろに現実の色なんぞで塗っては、山ではなくなる。絵とは真実と虚偽の狭間を行く芸術なのであ~る!水は水色空は空色、これじゃ~話にならん。で、山は何色に塗るかだって、ここから先は実地にやって貰うしかない。というわけで、絵はへたっぴーだが講釈は一人前の私なのである。だいたい先生の画帳の紙質と私のは全然違う。これではあの感じは出せん、そこで早速画材屋へ飛んで行き、同様の物を手に入れた。これで準備万端整った、次回を楽しみに待っている。
2009年04月26日
ひきこもり
最近は所謂「ひきこもり」が多いそうだ。ちょっとしたことが切っ掛けで、家の中にひきこもりっきりに成り、人に会う事も出来ない。また目的地まで行くのに人に会わないようにするため、何里も迂回するなどと言うこともあるそうだ。こういう心の問題は当人にとっては誠に深刻で、その克服のために相当苦労すると言う。心はガラス細工のように壊れやすく傷つきやすい。優しくナイーブな人には、些細なことでも大きく傷つくのだろう。私は兄弟4人で、戦後の食糧難時代に育ったから、家の中が既に競争社会だった。例えば羊羹1本を分けるのにも大変なことで、父は物差しを羊羹に当てて、4人の食い入るような目つきの中、1ミリの誤差もなくぴったり包丁で切った。昔の羊羹は端っこが少しえぐれていたので、その凹みをどう扱うかが大問題だったが、いつも私は素早くその端っこの部分を取った。確かに凹んだ部分は、量的には損するわけだが、こってり砂糖が淀んでいて、他と比べて甘さが抜群に違うのだ。それから数十年経ち、私も還暦間近な年齢になって、母が寺にやってきた折り、ふっと懐かしそうに小さかった頃の羊羹の話をしてくれたことがある。二人でわっはっはっ!と大笑いした。ひきこもってなんかいられたものじゃ~ない。家の中だって生存競争が激しかったのだ。子供の数が減り、物質的に豊かになり、日常何不自由無く暮らせるようになって,却って心は滅んでしまったのだ。「物で栄えて心で滅ぶ」と、薬師寺の高田好胤さんがいつも言っておられたが、これも文明病の一種なのかも知れない。まっ、専門の精神科のお医者さんだと、別の見方もあるだろうから断定は出来ないが、僧堂の若い雲水を見ていても、実に心が弱いと痛感する。
2009年04月23日
湖北の街の村おこし
今日は早朝よりともしび会1日バス旅行に参加した。行き先は琵琶湖の北方、渡岸寺・石道寺・鶏足寺・戸岩寺の観音菩薩像参拝。先ずは高月町の雨森芳洲の記念館、東アジア交流ハウス雨森芳洲庵の見学。芳洲は江戸時代前期から中期にかけて朝鮮との外交交渉や貿易に活躍した儒学者である。語学に堪能で鎖国中の日本にあって朝鮮との交流に多大な功績を残した人である。何より驚いたのはこの高月町の街の美しいことである。用水路には清流が勢いよく流れ、大小の水車が回り、花が至る所に咲き競っている。家々も実に立派な構えで、田舎とは言え京に近く、都の風をずっと受けてきたせいか、垢抜けている。今までこんな美しい田舎を見たことがない。さらに芳洲の顕彰の仕方が実に地道で、村全体を巻き込んだ韓国との交流にしても、一つ一つが深い配慮のもとに行われているのだ。また百戸余りの小さな村ながら、様々な行事を村全体で盛り上げている。近頃はやりの、結局金儲けが本音の、軽薄な町おこし等とはまるで違うのだ。観音菩薩像のお詣りもさることながら、その地域に長く息づいている仏教精神の深みを、かいま見る思いであった。
2009年04月21日
伝染病
伝染病と言っても、ここで言うのは一般的な病気の伝染という話しではない。僧堂で一人やたら眠る奴が居る。困るのは講座の時だ。話しが始まるか始まらないうちに、こっくりこっくりやっている。講座中殆ど眠りっぱなし、話なんかてんで聞く気なし。たびたび、「起きとれ~!」と大声張り上げて叱りつけるが、効果なし。言うこっちの方が草臥れる。さらに困ったことには、どうも「居眠り菌」というのが有るらしく、周辺にこの菌をばらまくから、こいつの周辺の者までこっくりこっくりやり出す始末だ。こういうのに限って飯だけは良く食う、僧堂の食事は大半が含水炭素だから、水ぶくれのようになってぶくぶく太っちゃう。その巨体を支えるために相当エネルギーを要するため、動くとき以外は専ら省エネモードになるわけだ。故に寝るのが一番と、誠に理にかなって、ごもっともと言うほかないが、困った奴だ。そう言えば郷里の墓に、一休さんが木魚に寄りかかって居眠りしている石像が置いてあった。どうも小坊主というと居眠りするというのが世俗的イメージらしい。お寺は朝が早いから、慢性的睡眠不足に陥って、暇さえあれば寝てしまうと思うのだろうか。まっ、たしかに現実でもこういう風だから、中ってはいるが、しかしそう言う出来の悪いのは一部で、大半の者はまなじりを結して頑張っている。ところで今日は終日雨、庭の新緑が文字通り滴り落ちて、一層生き生きとして鮮やかである。これでまた草がわっと生えてくるかな~と、じっと庭の地面を見つめた。
2009年04月19日
生涯現役
昼前にEさんから、「今日サンパウロに帰ります。」という電話を頂いた。今回は私がお勧めした九州の断食道場参加や絵の展覧会など、さぞお忙しい滞在だったと思うが、また反面充実した日々を過ごされたのではないだろうか。今年、後期高齢者仲間入りと言っておられたが、どうしてどうして溌剌として、現役バリバリでご活躍中である。顔の色つやも良く、頭の回転も相変わらず冴え渡っており、全く老いを感じさせない。日頃から健康には人一倍神経を使っておられ、体のケアーも怠らないのが良いのだろう。私は以前、現役は70歳くらいでお仕舞いにするかと考えた時期もあったが、Eさんに巡り会い、人間死ぬまで働き続けるのが一番幸せと言うことを教えられ、考え方が変わった。いろいろお話を伺いながら、心の深さを感じたのである。「我以外みな我が師」とどなたか言っておられたが、広い世の中には立派な方が沢山居る。こういう人にお目に掛かるたびに、我が身を顧み、安易な生き方はすまいと思うのである。
2009年04月17日
滴翠
新緑真っ盛りである。隠寮の庭はもみじとどうだんが中心に植えられているので、滴るような翠が目に染みるようだ。同じ新緑でも、もみじとどうだんの翠は特に鮮やかで、庭に降りて辺りを見回すと、顔も手も体全体が緑色に染まるような気がする。200年ほど前に僧堂を開単された隠山禅師は居室の名前を滴翠軒とされた。爾来それが瑞龍寺住職の軒号となっている。いつもこの季節には、この軒号は全くその通り、ぴったり合っているな~と思う。庭は周囲を山に囲まれているので、ひっきりなしになく小鳥の声も澄んだ空気に調和して、目を閉じて耳を澄ますと深山幽谷の風情である。こういう庭を眺めながら日々を過ごせるというのは、本当に贅沢な話しである。これも人より少し長く修行したご褒美かなと思っている。さて先日噛まれた脛もようやく痛みも取れて傷口も塞がり元通りになった。翌日からの散歩は、凶暴きわまりない変犬の居る界隈は決して通らなくなった。ハチもなかなか賢い、余程堪えたものと見える。コースを大幅に変更してきたのである。お陰で時間が長くなり毎日大汗掻いている。
2009年04月15日
道ひ得るも南天棒
今日から雨安居入制大接心である。例年のこととは言いながら、はやりこの緊張感は堪らなく良いものだ。特に春は新到さんが入門してくるから、今まで居た者も新鮮な気持で一層張り切ってやる。参禅室は隠寮一番奥にある茶室を使っている。床の間も普通サイズより小さいので、軸物もそれに併せて小振りな物と言うことになる。私は瑞龍寺に来て以来、ずっと南天棒の軸を掛けている。これは以前、伊深の門前の尼寺の先住さんが亡くなった折り、後を継がれた尼僧さんから形見分けに頂いた物である。丁度サイズも床の間にぴったり、さらに、「道ひ得るも南天棒道ひ得ざるも南天棒」という語句も参禅室にぴったりで、気に入っている。この言葉は本来、「道(い)ひ得るも三十棒道ひ得ざるも三十棒」と言うのを南天棒が置き換えているものである。答えようと答えまいと、打って打って打ちのめす!という、禅の究極の処を表現しているので、まさに参禅室にぴったりなのである。また床の横にはちょっとした棚があり、そこに師匠の坐禅姿のブロンズ像を置いている。これは老師の信者さんで高名な彫刻家が日展の出品作として、師匠をモデルに「禅」という題のものを作り、その後ミニチュアを何点か作ったうちの一つである。背中に祖鏡尼遺品の軸、その横から師匠の坐禅姿に見守られながら聞く参禅は、私にとって何よりの力づけに成っている。数々の会い難き良き縁に巡り合い、そのお陰で今までやってこられたのである。思えば本当に有り難いことである。
2009年04月14日
脛に傷
この間早朝市内をハチを連れて散歩中のこと、白犬が民家の玄関より脱兎の如くハチめがけて突進してきた。あっ!と思う間もなく、いきなりハチに食いついた。驚いてその白犬めがけて蹴り上げたが激しい勢いで食いついてくる。ハチはそう言うとき、全く弱虫でやられっぱなし。すかさずハチを小脇に抱え、その凶暴なバカ犬めがけてキック!そうしたら私の脛をハチの代わりにがぶり。いててててっ!作務着の上から血が滴り落ちるほどであった。名誉の向こう傷である。バカ飼い主が、「どうもすみません。」だと。犬を放し飼いにするのは法律で禁じられているのだ。犬は飼い主に似ると言うが、両方共に馬鹿者だ。暫くだっこして歩き、もうこの辺なら良かろうとそっと道に降ろし、いつものコースを先に行くかと聞いたら、もう怖いから帰りたいというので引き返してきた。兎も角私の素早い機転でハチは無傷、安堵の胸を撫で下ろした。世の中何が起こるか分からない。危険なのは人間様だけではないのだ。こういう不況の時代を反映して、うちの寺にもよく、働かしてくれだとか、腹が減ったから何か食わしてくれだとか言うのがやって来る。副司さんに聞くと、何か食わしてやったら庭掃除をさせるのだそうだ。な~るほど。
2009年04月13日
把針
このところ急に温かくなってきたので、白衣も少し薄めのものに替えようとタンスをがさごそ、3枚ほど引っ張り出して見ると、あっちこっち解れている。このままでは着られないので早速把針に取りかかった。下手の長糸と言うが、糸を針に通すのが年々難しくなってきたので、なるべく長めにして縫い始めると、たちまち糸が丸まってこぶが出来、結局途中で切ることになる。腹が立つが致し方なし、短くなった糸で縫う。まっ、出来はイマイチだが、兎も角解れは修復できたわけで、合計3枚完成させ、早速着てみる。平生は丸洗いが出来る安物の生地だから直ぐに糸が弱り、絶えず繰り返し把針が必要なのである。私は部屋の掃除や雑巾がけ、洗濯、風呂洗いなど、身の回りはすべて自分でやる。ずっとこれでやって来たからさして苦痛ではないのだが、この裁縫だけは本当に嫌になる。さて今日は本堂を使って、教区の寺庭婦人(じていふじん)の講習会が催された。お寺の奥さん方の定期講習会で、近年特に寺院では奥さん方の役割大成るものがあるようだ。一般家庭でも奥さん方の発言力は強くて、殆ど牛耳ってると言っていい。まっ、その方が家庭内が丸く収まるからと言うのが本音かも知れないが、粗大ゴミだの濡れ落ち葉などと言われるのも専ら男の方で、女がこういう言われ方をしているのは聞いたことがない。私の個人的意見を言わせて貰えば、女は男にひたすらかしずくものだと思っている。今まで拝見した奥さん方の中で、こういうタイプの人は本当に奥ゆかしく、これぞ大和撫子だと感ずる。またそう言う人は温和な顔が実に良いのだ。
2009年04月12日
カラス害
先日カラスの散歩を眺め微笑ましく思ったと書いたが、今日は怒髪天を衝く。隠寮庭の杉苔を相当な範囲突っついてめくり上げ、穴だらけにして行った。こんな処突っついたって何も出てきやしない。これは明らかにカラスの暇つぶしにやった仕業である。それも1羽や2羽ではない、団体さんで、お年寄りが集まってゲートボールを楽しむが如くに、カラスの穴掘り大会をしているのだ。近頃、隠寮の庭に面した濡れ縁を歩くと、10数羽のカラスが庭に降りて何やらがさごそやっていたが、ただの散歩に飽きたらず、ついにこんな遊びをおっぱじめたと言うわけだ。知人の庭でも小鳥がどどっとやって来て、悪戯するので庭全面を、特性網で被ったという話を聞いた。うちの場合は範囲も広く、網で被うといっても容易なことではない。さりとてずっと見張り番をして、その度に追っ払うと言うことも出来ない。以前山から猪が降りてきて庭の杉苔を荒らし回ったことがあり、それはビリビリ電線で退治した。しかし今回はこれと言って有効な対策はない。ひっ捕まえて焼き鳥にして食ったら、図体も大きいし相当食いではあると思うが、今までカラスの焼き鳥というのは聴いたことがない。よく見ると、目つきは鋭いし人相も悪く、何だか憎たらしい顔をしている。この調子で毎日庭に来てはほじくり返されたら、猪の被害どころではない。頭の中が真っ黒になった。
2009年04月11日
幸せの在りか
健康とか幸福とかは、失って初めて自覚できる種類の価値で、若さも同じだ。以前、突然右足の付け根が痛み出し、病院で検査の結果あわや手術寸前と言うところまで行き、何とか注射で治ったことがある。一寸先は闇と言うが、その時ほど無事を有り難いと思ったことはなかった。また近年物忘れが酷くなったり、誤嚥が度々あったりすると、今更ながら失った若さに初めて気が付く。今、飽食の時代という。私も一応戦前の生まれだから、戦後の食料困窮時代を経験しているが、スーパーなどで溢れる食料品を眺め、これが異常なのではないかと思うことがある。また東京の商店街を歩きながら、きらびやかな商品が溢れんばかりの様子を見て、「日本は物が溢れかえっておりますな~。」と言った友人の言葉が思い出される。食べ物がないときは、兎も角食物を確保しなくっちゃと思って努力する。それに懸命だった時代に育った有り難さを思わずにはいられない。幸せとは過去と現在の間にあるのではないか。吉本隆明が「自分のうしろ姿を昔の視点から眺める。その間に幸福感があるのではないか。」と言っていたが、その姿がけなげでいじらしく思えると、今がぱっとしなくったって、まっ、いいか!と現状を肯定し、そこに何がしかの幸福感を覚えたりするものである。
2009年04月10日
ラジオを聴く
近年テレビが主流になって、日常ラジオを聴く機会はほとんど無くなった。車で移動の時テレビを見ながらというのは出来ないので、仕方なくラジオを聴く程度である。眼耳鼻舌身が人間の五感だが、テレビ中心になって以来視覚に頼りすぎる傾向がある。もっと五感は均等にバランスよく働かせるべきで、視覚だけが突出して高く、八割以上を占めるというのは考えものである。私は時々目を閉じてじっと坐禅を組みながら、外界の音に耳を澄ます。私の部屋はほぼ周囲を山に囲まれているので、花から花へと渡る小鳥たちのさえずり、その中にホーホケキョと一段と爽やかな鶯の声も混ざって、嗚呼春だな~と実感され、のどかな幸せな気分になる。また大の巨人フアンの私は、球春を待ちこがれ、勝敗に一喜一憂するのもまたラジヲの実況中継である。アナウンサーの絶叫は、脳のスクリーンと聴覚が連動して、想像力は逞しく育ってゆく。子供の頃NHKラジオの「おら~三太だ」では、画面のないドラマにどれ程想像力をかき立てられ、胸をわくわくしたことか知れない。後年、私が鎌倉の寺の住職していた頃、ひょんな機会に、その三太のモデルになったというお爺さんに会ったことがある。神奈川県の津久井という、どうし川沿いの山奥の集落だったが、何十年もの時空を越えて、夢踊らせた子供の頃の記憶が怒濤の如く蘇り、涙が出るほど嬉しかったことがある。人間の脳が他の動物と決定的に違うのは、言葉の外に、「未来を見る」能力があることだそうだ。未来を見るとは想像することであり、相手の気持ちを推し量ることでもある。そう考えると、想像力は相手を思いやる優しさ、人間性とも深くかかわるわけで、「聴く」ことはなかなか深い意味のあることである。
2009年04月06日
開講
15日入制に先立ち、今日開講が行われた。ずっと以前は入制日に合わせて開講行事を行っていたのだが、そうなると大接心の1日目と開講行事が重なって、結局半日以上潰れてしまう。これではせっかくの大接心も出鼻を挫かれたようで、どうも具合が悪い。そう思っていたとき、ある僧堂で前もって開講を済ませてしまうと言う話を聞き、それは良いことだと思い、関係者に相談して、爾来この方法を採用しているのである。山内・役刹・会下・信者さんが集い、無事終えることが出来た。明後日からは地取接心も始まり、いよいよ雨安居入制である。何年僧堂に居ても、この時期の緊張感は良いものだ。先日商社マンで既に数年前リタイアー、今は悠々自適の日々を送っておられる方と一緒に食事をした。手帳は現役の頃と全く同じくらいびっしり埋まっていて、大変忙しいと言っておられた。この方のようにリタイアーしても前向きに社会と関わり、溌剌としている様子は羨ましい限りである。ただ、ちょっと気になったのは、社会との関わり方が、結局趣味や遊びという部分だけだから、忙しさの中味が現役の頃と違う。私はくたばるまで緊張感の中で生涯現役を貫きたいと思っている。この方がまだ現役ばりばりの頃と今とは、矢張り「顔」が違うと感じたのである。
2009年04月05日
日伯絵画展
知人のE氏の仲間10人の絵画展が東京砧公園内の世田谷美術館の一室を借り受け催された。第一回目は10年ほど前に東京駅近くの生命保険会社のロビーを借りて催され、第2回はサンパウロで、今回が3回目の展覧会である。日本からブラジルへ仕事のために派遣された人達が趣味で始めた絵を、帰国後も続けられていたり、また現在も尚ブラジルで活躍されている方など、絵を通しての交流がずっと続いて、数年に一度の割で展覧会を催しているのである。今回1週間の開催中、遠路九州や関西方面からも嘗ての同僚や知人、友人達が入れ替わり立ち替わり訪れ、思わぬ交流が復活して、楽しいひとときを過ごすことが出来たと言って喜んで居られた。私も3年振りにE氏にお目に掛かることが出来、話が弾んだ。こういう趣味も思わぬ良い副産物があって、単に絵だけではなく、交流の輪も広がり、良いものだな~と思った。然もこの方々の絵の腕前は、趣味の域を越えており、多少水彩をやっている私にとっても良い参考になった。身贔屓で言うわけではないが、友人E氏の絵は際だっており、特に近年腕を上げられた。何事にも徹底しないと治まらない性格が、趣味でも充分に発揮され、ますます良い作品が生まれるのであろう。今年めでたく後期高齢者の仲間入りを果たし、企業家として、果樹園経営者として、また趣味に、生き生きと活躍されている姿には頭が下がる思いである。
2009年04月04日
夜桜
4月2日、京都の本山へ遠諱(おんき)法要のため出掛けた。私の担当は3日午前9時、前日はそのために用意して頂いた宿に泊まったのである。そこは二条城の真ん前のホテルで、私の部屋からも目の前に見える。隠侍と二人で夕食を済ませ時計を見るとまだ午後7時、寝るには少々早い。そこで、二条城へ夜桜見物へ行こうではないかと相談がまとまり、広い堀川通りを横断、一人400円也の入場券を買って中に入った。券を差し出すと我々の格好を見て、お坊さんは無料ですから結構ですと、券を受け取らずに中に入れてくれた。最初からこうなら買うんじゃなかったと思ったがもう遅い。中に入るとぞろぞろと人で溢れていた。何本かの桜に下からライトを浴びせ、さぞ満開なら綺麗だろうな~と思いながら、1,2分咲きの寂しい蕾を眺めて終わり。桜の花はぱっと満開でこそ華やかで良いものだが、蕾で然も夜では何の花見かというものだ。骨折り損のくたびれもうけと言うが、敷石をぎしぎし歩いただけだった。入場券売り場に並んでいた若いカップルに、未使用の券を、「貰って!」と言って差し上げ、がっくりして宿に戻った。うちの門前の桜はもうとっくに満開である。それなら京都も満開と勝手に思ったのが間違いで、今年は地域によって随分ばらつきがあるようだ。さて翌日の法要だが、お詣りの方々は岐阜の飛騨地方と静岡東部の壇信徒500人、4月に入ってもまだ小寒い日、遠路早朝よりお出かけいただき、有り難いことであった。