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2009年04月26日

ひきこもり

最近は所謂「ひきこもり」が多いそうだ。ちょっとしたことが切っ掛けで、家の中にひきこもりっきりに成り、人に会う事も出来ない。また目的地まで行くのに人に会わないようにするため、何里も迂回するなどと言うこともあるそうだ。こういう心の問題は当人にとっては誠に深刻で、その克服のために相当苦労すると言う。心はガラス細工のように壊れやすく傷つきやすい。優しくナイーブな人には、些細なことでも大きく傷つくのだろう。私は兄弟4人で、戦後の食糧難時代に育ったから、家の中が既に競争社会だった。例えば羊羹1本を分けるのにも大変なことで、父は物差しを羊羹に当てて、4人の食い入るような目つきの中、1ミリの誤差もなくぴったり包丁で切った。昔の羊羹は端っこが少しえぐれていたので、その凹みをどう扱うかが大問題だったが、いつも私は素早くその端っこの部分を取った。確かに凹んだ部分は、量的には損するわけだが、こってり砂糖が淀んでいて、他と比べて甘さが抜群に違うのだ。それから数十年経ち、私も還暦間近な年齢になって、母が寺にやってきた折り、ふっと懐かしそうに小さかった頃の羊羹の話をしてくれたことがある。二人でわっはっはっ!と大笑いした。ひきこもってなんかいられたものじゃ~ない。家の中だって生存競争が激しかったのだ。子供の数が減り、物質的に豊かになり、日常何不自由無く暮らせるようになって,却って心は滅んでしまったのだ。「物で栄えて心で滅ぶ」と、薬師寺の高田好胤さんがいつも言っておられたが、これも文明病の一種なのかも知れない。まっ、専門の精神科のお医者さんだと、別の見方もあるだろうから断定は出来ないが、僧堂の若い雲水を見ていても、実に心が弱いと痛感する。

投稿者 zuiryo : 2009年04月26日 16:37

コメント

この寺は何百年もなまくら禅の引きこもりを作ってきただけなのにどんな口が偉そうに引きこもりを批判できるんだか。

南天棒は死んでいったなまくら坊主を教化するために地獄に落ちたんだ。

投稿者 どんぐり : 2009年04月28日 14:00