2009年07月24日
書道
私が住職して間もなく、知人から墨跡を依頼された。それまで多少書道の稽古はやったが、墨跡など書いたことがない。まだ押す印さえ持っておらず、鄭重にお断りすると、そう気にせず何でも良いですから書いて下さいと強引に頼まれた。仕方なくへったぴーな字を何枚も書き、中から少しはましなものを1枚差し上げた。爾来このことが大変気になった。そんなある時総代さんの所へお経を読みに出掛けた折り、床の間を見ると「南無阿弥陀佛」が掛けられていた。これはどなたのですかと尋ねると、書道の先生の字ですという。毎月4回お宅に大変高名な先生にお越し頂き、数人の仲間と書道の稽古をされているという。早速私もその仲間に加えて欲しいと申し出ると、快く承諾して下さった。爾来27年間ずっと続け、稽古場も10数年前からうちのお寺になった。禅僧の書は必ずしも書家のようである必要はなく、境界で書けば良いのだが、さりとて無茶苦茶な我流で、丸書いてポンでは恥ずかしい。我々の大先輩の書でも、一端は基本をしっかり勉強して、その後自分流を編み出しておられる。だから深い味わいが醸し出されるのであって、無手勝流では駄目だ。稽古を始めて解ったことは、書は「余白の美」ということである。一般には黒々と書かれた墨の方を見るが、余白の方を見て美しさを感ずるので、いわば空間の美なのである。そう言う目が養われると、書に対して常に襟を正し、決して傲慢にならないという心が出来てくる。書道をやって、これが一番の収穫だと思っている。
投稿者 zuiryo : 2009年07月24日 15:50