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2009年08月30日

長良川鵜飼い

岐阜長良川と言えば鵜飼いで有名、岐阜市が唯一誇るメジャーな観光である。一般的には高山や白川郷合掌集落が広く世に知られ、高山は岐阜ですか?などと言われて、岐阜人はガクッ!と来る。高山も白川郷も岐阜県の外れで、むしろ富山県や福井県に近いところから、こう言われてしまうのかも知れないが、どちらも岐阜が誇る観光地である。さて今夜は10数年振りに鵜飼い見物となった。友人が接待のため船を出すので、私もお相伴にあずかったというわけ。ところでこの長良川鵜飼い、近年見物客は減少傾向で、いろいろ工夫してみるものの、一向に増加しない。鵜飼いのためにはいろいろと維持費がかかるようで、市営のため税金から補助金が支出され、ためにいつも議論喧しである。しかしこの鵜飼い遊びは、よく考えてみると、元来広く一般庶民が楽しむためのものではなく、所謂旦那衆と呼ばれるような人達が、芸妓を挙げて優雅に川遊びをしたもので、だから見物客の人数の多寡を云々するようなものではないのだ。ましてや修学旅行の生徒達まで勧誘して、多ければそれで良しというのは、根本的に間違っている、と言う人がいた。な~るほど、そう言う見方もあるのかも知れない。これも市営になり、税金が幾ら投入されているから、儲かったの損したのとなる。まっ、どだい社会のシステムが昔と違ってきたから、旦那衆遊びそのものが世の中から消えて無くなった。先日も料亭の女将が言うには、座敷に芸妓を呼んでも、踊りや長唄、小唄、常磐津などを楽しむことを全然知らない客ばかり。ただお酌をさせて、世間話のお相手をしてくれればそれで良しなのだから、結果若い子ばかりが売れて、年季を積み芸を磨いてきたベテランの芸妓はさっぱりお呼びが掛からなくなると、嘆いていた。これなども鵜飼い見物と一緒で、時代と共に人間の質が変化し、こういう優雅な遊びそのものが、受け入れられる素地を失ってきたと言うことなのだろう。他人事ではない、我々修行の世界も同様で、10年も20年もバカになって、地道な修行を続ける者など、殆ど居なくなった。手っ取り早く目先のことに目が行き、お経を上手に読めて、ぺらぺらお喋りが出来ればそれで良しである。世間の価値がそうなってくると師家の側も迎合して、一緒になってそれを喜んでいる。全く世も末である。

投稿者 zuiryo : 2009年08月30日 08:47

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