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2009年12月22日
臘八大接心
15日から22日早暁まで恒例の臘八大接心があり、今朝無事円成した。雲水の方は毎年若いのが入ってきて相変わらず元気でやっているが、こっちは年々老齢化で、同じ事の繰り返しだが、全体的に身体に堪えるようになってきた。だから一層、こうして無事円成すると、じ~んと心の奥底から嬉しさがこみ上げてくる。元気で毎年同じ事が出来る喜びである。人間は苦しまないと、当たり前のことが、実は有り難いことなのだと気が付かない。近年同年齢の友人達が次々に病に倒れ、昨日まで普通に出来たことが、今日はもう出来なくなってしまった。そう言うのを目の当たりにすると、健康がなんと言っても一番で、まっ、多少足腰があっちこっち痛むが、その程度で頑張れるのは、本当に幸せなことである。今晩は冬至灯夜で、僧堂中で飲めや歌えの大騒ぎをする。尺取り虫の屈するは伸びんがためなりで、年一回の無礼講である。徹底修行した後、今度は一転、徹底放行(ほうぎょう)する、こう言うところが僧堂の醍醐味である。一週間横にも成らず、坐り抜いて、参禅では老師にボコボコのめにあって、地獄の八丁目まで行って来たから、無礼講もまた一入の味わいがあるのだ。
2009年12月19日
イノ公大暴れ
裏山辺の山道、伊奈波神社茶室の庭等々、このところ猪が暴れ出した。つい一昨日も夜の参禅中、直ぐ脇の山でどったんばったん、ギャ~ギャ~!と、恐ろしいほどの鳴き声というか悲鳴というか、暴れ回っている様子が間近に聞こえてきた。兎も角鼻息が荒いのだ。物音から察すると相当な巨体が辺りの木をなぎ倒し、ミシミシバリバリ、ドッス~ン、身に危険を感じるほどである。以前猪の被害に困り果て、山際一体にビリビリ電線を張り巡らしたので、この防衛線突破はあるまいと信じては居たものの、余りにも近くで地響きを立てているので少々心配になってきた。ひたすら身を縮めてやり過ごし、翌日現場を見てきた。すると見事にビリビリ電線は効果を発揮し、一歩も中へは入ってきていなかった。するとあの悲鳴はイノ公が電線に触れてビリビリときたもんだから、思わずギャ~!といったのである。ざま~みやがれ!余りにも人家近くまでやって来るので、危険だと言うことで、市役所に駆除を申し入れしているのだが、猪はそう簡単に鉄砲で仕留めることは出来ないようである。あの巨体が、猪突猛進こちらに向かってこられたら、堪ったものではない。猟銃会などに頼んであるが、多くの市民が日常的に歩くハイキングコースになっているから、危険でもある。いろいろと難しいのだそうだ。前に、ひっつかまえてしし鍋にして食ってやると言ったが、とんでもない、その前にこっちの命がない。
2009年12月15日
落ち葉のジュウタン
午後から裏山を歩いてきた。今年はまだ一部紅葉が残っており、ナラやクヌギの枯れ葉が山道一杯に敷き詰めたようになっている。厚さ10センチほどに積もった枯れ葉の上をさくさく音を立てながら歩くのがまた良い。ところで最近猪が頻繁に出没、裏山一他を暴れ回っている。今日も途中の道が猛烈に掘り返され、一部は道がなくなってしまうほどの激しさだ。良くもあの堅い道を牙で掘り返すものだと感心させられる。まるで小型ブルトーザーのようである。地中のミミズを食べるためだと言うが、それにしてはもう少し効率的なやり方があるのではないかと思う。あれでは牙が忽ち磨り減ってしまうのではないだろうか。まっ、私がそんな心配をする必要もないわけだが。裏山は岐阜市民の健康ウオーキングのメッカ、こうも猪が出没しては誰か鉢合わせする人が出てくるのではないかと心配になる。そんなことはさて置いて、僅かに残る紅葉、道に敷き詰められた落ち葉の色、常緑樹の濃い緑とが、程良くマッチして得も言われぬ良い感じである。私は下手の横好きで少々絵を描くのだが、そう言う目で見ると、この山の景色は実に美しい。山歩きは勿論健康のためだが、それは肉体的に良いと言うだけではなく、気持ちの上でも何だか幸せになる。これだから山歩きは止められないのである。
2009年12月14日
ガブッ
他にこれっと言って話題もなく、懲りずにまたハチのことを書く。毎度のことだが、右前足肉球におできが出来て、びっこを引いている。そこで医者へ行き塗り薬を貰い毎日治療した結果、順調に回復しほぼ完治。やれ嬉しやと傷口を舐めないようにはめていた、何というものか名前は知らないが、チューリップ型のガードをはずした。ところが一晩かかって、折角治った傷口を舐め尽くし元の木阿弥、再び真っ赤に腫れ上がってしまった。もう1回やり直しである。その後順調に治ってこれで完璧。ところが今度は左前足をびっこを引くではないか。見ると指の間が真っ赤に腫れ上がっている。再び治療が始まり、ほぼ治ってきたつい先日のこと、早朝雨の中1時間の散歩を終わり、先ずは専用バスタオルで丁寧に体中を拭いてやった。さていつもの机の上に載せ、薬を塗ろうと抱きかかえた瞬間、ギャオ~ッと叫ぶやいなや私の右人差し指に激しく噛みついた。いててててっ!血がぽたぽた落ちた。この間はお歳暮の御礼状の書きすぎでバネ指になってしまい、お医者さんから顔が引きつるほど痛い注射を打たれ、今度はハチにおもっきり噛まれてまた痛い思いをした。災難続きの右手である。ハチは普段は実に良い子なのだが、足に触られると途端に形相が変わり、噛みつくという変な性質を持っている。理由は分からないが、兎も角困ったことである。その後足に薬を塗るのは、ハチが一番従順な雲水が一人居て、彼が専ら担当になった。不思議にこの雲水には絶対服従なのだ。何故なのか一度ハチに聞いてみたものである。
2009年12月10日
日記
私はもう40年前頃からずっと日記を付けている。と言っても、途中修行の間は勿論休筆だったが、その後復活、今日まで兎も角一日も欠かさず書き続けている。日記は起床後すぐ軒下に吊してある寒暖計で、その日の気温を調べ記帳することから始まる。還暦の時、姪っ子が10年連記の日記帳と大きな特製よだれ掛けと、どういう訳か風呂場の洗い桶をプレゼントしてくれた。それぞれバラバラで脈絡がないように思えるが、常々気がついたものをプレゼントしてくれたようである。さてこの10年連記の日記帳、まことに良い。近年は特に個人的記録と共に僧堂行事の覚えを細かに記録しておく。人間の記憶は意外にいい加減なもので、1年も経つとさっぱり分からなくなる。そう言うとき10年連記だから前の年、その前の年という具合で、確かめられて本当に重宝している。1ページが10等分してあって、一番上の年が60歳で、年々下に降りてくるのだから月日の経過を目で見られるわけで、歳月を形で実感できる。先日もご主人を亡くされた奥さんから手紙が来て、「この頃、死に方で何が一番に良いか考えるようになりました。癌は自分の余命が分かり、自分の月日の送り方が分かって良いと言われている云々・・・。」とあった。人生如何に生きるべきから、人生如何に死ぬべきかに変わってきたような気がする。ちょっと寂しい話しになったが、いつでもその覚悟を決めて、精一杯生きることかなと思っている。
2009年12月08日
葛根湯医者
落語の「代脈」をご存知だろうか。このまくらに江戸時代の医者の話が出てくる。その頃は現在のように、医師の資格が制度として確立されていない時代だから、随分いい加減な医者もあったようだ。俗に葛根湯医者と言われ、頭痛・腹痛・胃のもたれ、はては付き添いで来た人にまで、「さぞ退屈だったでしょうと」と、全て薬の処方は葛根湯で済ましてしまうと言う、無茶な話が出てくる。或いは「でも医者」というのもあって、他にすることがないから医者にでもなろうか、「そうおしよ、父上の道具も残ってることだから。」と母親も勧めるという話し。いずれも落語だから話半分に聞かなければならないが、いずれにしても今では考えられないようなことである。さて、いつもお世話になっている皮膚科のお医者さんがある。3週間前頃から、右目の下に妙な痣のようなものが、もっこりふくれて出来た。痛くも痒くもないのだが、目立つ場所と言うこともあり、気になりだした。もしや皮膚癌かも知れない。万事心配性の私のことだから、早速いつもの医者へ出掛け診て貰った。先生は大きな虫眼鏡で、そのもっこりあざを見て、「庭掃除でもした時、木の枝で擦ったんじゃ~ないですか。」「いいえ、私は庭掃除はしません。」「そうですか、横に擦ったような傷がありますよ。」多分、私は顔を洗うときは、タオルに石けんを付けて、まるで足を洗うようにごしごし思いっ切り擦る。ために傷が付いたと思われる。しかしこのもっこり変色はそれ以前の問題で、どうも先生の見立てに不満である。「じゃ~いつもの薬で良いでしょう。」これは私の頭やその他、全てこのチューブ入り軟膏で、一切済ませており、今回もこれで良いという。ふっと葛根湯医者が浮かんだ。ところで、愛犬ハチだが、どうもわたしに似たのか、やたら皮膚が弱く、直ぐ肉球におできが出来る。その時塗る軟膏が、何と私の頭に塗ってるのと同じ軟膏なのだ。つまり私の頭とハチの足が一緒と言うこと。と言うことはこの軟膏、万能薬なのか。江戸時代も現在もあんまり変わってないな~。尤も、葛根湯は今でも風邪薬のコーナーに置いてあるから、実に寿命の長い特効薬なのだろう。
2009年12月07日
腱鞘炎
今年も早や師走、一年経つのは、あっという間である。ついこの間、正月三ケ日の大般若祈祷をやったと思ったら、間もなくまた大般若祈祷である。その間一体何をやっていたのかと、ざっと想い出すとこれっと言うことはない。しかし日記を繰って、綿密に日を追って読んで行くと、どうしてどうして、結構波瀾万丈の日々である。ところで、歳末になると知人友人、また寺の関係など、あっちこっちからお歳暮を頂く。本当に有り難いことである。そこで近年は御礼の印に、干支の色紙を差し上げている。来年は虎、干支の中でも虎の絵が一番難しい。虎の絵と言えば、翠石が有名で、以前大垣で翠石展が催され、見に行ったことがある。さすが迫力満点、それは素晴らしかった。大きな絵なのだが毛一本一本まで描き込んである。まっ、私の虎は問題外のそとだが、自分で言うのも何だが、私としてはまあまあの出来。干支の色紙を描きだしたのが申年からだから、これで七年、後五年で一回りである。ところで前置きが長くなったが、干支の色紙を郵送するため、畳紙(たとう)に包み、解説文を載せ、礼状を添え、ベニヤ板をあて、専用の大きな封筒に詰め込む。この作業を延々一日やったら、翌日右薬指と小指が腱鞘炎になってしまった。朝起きて顔を洗おうとしたら、指が痛くて曲がらないのだ。早速いつもの整形へ行き、先生に診て貰うと、通称「ばね指」というのだそうだ。「手指を相当使いましたね~、では痛いところに注射をしましょう。」と、ちょっと触っただけでも、いててててっ!というところに、直角に注射針をいきなりぶすっときた。おもわず顔面が引きつった。御礼もたいてやない。
2009年12月01日
癌とは何か
先日NHKテレビで立花隆の「ガン、生と死の謎に挑む」を見て、ガンに対する考え方が全く間違っていたと解った。40年近く前、ニクソン大統領が「ガン戦争」を宣言して、世界中の科学者が征圧に挑んできたが、ガンは知れば知るほど複雑で難しいと言うことが解ってきた。ガン克服にはこれから百年は掛かるだろうと言われている。現在我が国で毎年33万にもの人がガンで死亡し、世界中で今までに数十兆円の費用を注ぎ込み、なお死亡は増え続けているのである。人間が生きていること自体がガンになると言うのだ。外敵から身体を守るマクロフアージという免疫細胞がガンの進行を促進している。つまり正常細胞の裏切り、生命が進化の過程で生き抜くために獲得したHIF-1(ヒフワン)も同様ガンの増殖に手を貸している等々、細胞の半分は敵、半分は自分だと言うことである。つまりガンは生命そのものの根源なのだ。ではガンとどう向き合うかだが、ここではっきり解ったことは、ガンは克服できないと言うこと、だからじたばたしてもしょうがない、残された時間を、死ぬまでちゃんと生きること、これに尽きる。以上がテレビを見ながらメモしたものを概略書いてみた。近年親しい友人をガンで相次いで失った。爾来ずっとこのガンというものの正体は何んなのだろうか考え続けていたので、目から鱗が落ちた。他人事ではない、明日は我が身の問題である。その時自分はどう生きるか、今から覚悟を決めておかなければならないと痛感した。