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2010年01月17日

光陽会坐禅

今日は第3日曜日だからいつもの光陽会があった。以前は寒風吹きすさぶ酷寒の候に成ると、1人減り2人減り、大体7,8人がいいところで、酷いときは3,4人などと言うこともあった。今年は特に寒さが一段と厳しいので、参加者が減って良いのに、どういう訳か却って益々増えてきた。ざっと20人は参加、良くもまあこんな寒いのに早朝6時からの坐禅会にやって来るものだ。名古屋から毎回参加される人もおり、遠方は神奈川からも2人来た。真夜中出立して、高速を走り抜けて来たというのだから驚く。こういう奇特な人が居る一方、門前辺からは余り参加がない。これはどういう訳なのだろうか?うちの信者さんのお婆さんは、近くのうちへはやって来ず、わざわざ京都まで出掛けて法話の会に参加すると聞いたことがある。うちでも法話の会は催しているのにだ。話しをする和尚の玉が悪いからだと言われると、返す言葉はないが、そうたいして変わらないがな~と思っている。してみると、このわざわざ遠方まで足を運ぶことに意味がありそうだ。新年を迎えるとどなたも神社に初詣に出掛ける。これなども町内の神社でも良かりそうなものを、車に乗って渋滞の中遠方の神社へ行く。山内の和尚さん一家は、新年初詣は八日市の多賀神社まで行かれる。奥さんの在所が近くと言うこともあるのだそうだが、雪の多いときは随分大変であろう。知人も初詣は必ずお多賀さんへ行くと聞いたことがある。町内の橿森神社は歩いて5分のところにあり、明治6年までは瑞龍寺が管理していた神社なのだから、うちとは大変縁の深い神社なのだが、私もその前を素通りして、30分も歩いて伊奈波神社まで初詣に出掛ける。人のことは言えないのである。つまりそこに至る道程が大変なほど、目的の価値が上がると言うわけだ。不思議なことだが、合理的だとか、効率的とか言うこと以外に、一見無駄なように思えることに、価値を感じるのだろうか。

投稿者 zuiryo : 2010年01月17日 19:51

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