2010年02月06日
専門道場
禅宗では住職するためには必ず一定期間専門道場に入門し、修行しなければならない。現在の僧堂の形式が出来上がったのはほぼ江戸末期で、うちでは隠山禅師が始め天澤僧堂として開単され、数年後には200年になる。現在臨済宗で全国に30数ケ僧堂あり、歴史も様々である。長い伝統に支えられ、道場として維持されてきたわけだが、近年この伝統を維持して行くことが大変困難な状況になってきた。それは入門してくる雲水の気質が変化してきたからであり、またそれは社会が変化してきたと言うことでもある。そう言う中で育ってきた子供達は、僧堂との余りのギャップにとまどい、苦しんでいるのだ。さりとて伝統の道場では、今のご時世に合わせて緩くするわけにはいかない。道場入門が大学卒業して22歳、それまでに殆ど坐禅を組んだこともなく、麦飯を食ったこともなく、早朝3時に起きたこともない。その他規則で雁字搦めになる不自由さも経験したことがないから、当に地獄へやって来たようなものだ。そこでぐっと辛抱して、慣れるまで頑張る事が出来ればしめたものだが、早くも入り口で挫折してしまう。これでは禅僧に成ることも出来なければ、将来の展望も全く開けないことになる。そこで二通りの考え方があって、そう言う者は切り捨てるというのと、他の方便を考えて救済して行ったらどうかというのがある。受け入れる道場の側も本山側も、このシステムを何とか維持して行きたいと模索し、目下頭を悩ましているのである。たとえ無事入門できたとしても、修行に対し本来の姿ではないから、ために道場内で二次的軋轢が生じ、様々な問題が出てきた。そこで、僧堂入門前までに修行の基礎的訓練をしっかり受けさせるとか、師匠方には弟子を教育して行く義務を課せるとか、議論はいろいろあるが、現状を変えるには相当困難である。しかし待ったなしで次々に問題は起こり、当事者の我々師家もどうしたらいいのか大いに悩んでいる。こういう議論になると、直ぐ現代っ子の軟弱さを非難するが、彼らもこの時代に生まれ、その中で必死に生きてきたので、単に軟弱の一言で片付けられる問題ではない。そろそろ小手先の方法ではなく、もっと大局的な議論が必要なのではないかと思っている。
投稿者 zuiryo : 2010年02月06日 15:40