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2010年03月24日

分際

ある本を読んでいたら、大変興味のあることが書いてあったので、ここにご紹介する。昆虫は自ら食べるべき物を限定し、棲む場所も活動する時間も,交信する周波数も排泄したものの行方も、自らの死に場所と死に方も知っている。誰にどのように食われるかと言うことさえも。何故か。それは限りある資源をめぐって異なる種同士が無益な争いを避けるためである。生態系が長い時間を掛けて作り出した動的な平衡である。彼らは確実にバトンを受け、確実にバトンを手渡す。黙々とそれを繰り返し、ただそれに従う。これを生物学用語で「ニッチ」と呼ぶ。ニッチとは全ての生物が守っている自分のための僅かな窪み、生物学的地位のことだ。窪みは同時にバトンタッチの場所であり、流れの結節点となって、物質とエネルギーと情報の循環、すなわち生態系全体の動的平衡を担保している。今、ニッチを「分際」と訳す。すべての生物は本能の、もっとも高度な現れ方として自らの分際を守っている。ただヒトだけが、自然を分断し、あるいは見下ろすことによって、分際を忘れ、分際を逸脱している。人間だけが他の生物のニッチに土足で上がり込み、連鎖と平衡をかく乱している。ヒトは何が自分の分際であるかを忘れている。しかし他の生物のありようを見れば、分際とは何かがわかる。自らが棲む風土との間に、長い時間を経て生み出されたバランスのことである。たとえば江戸時代、私達はずっと風土に根ざした暮らしを送っていた。旬のものを食べ、地産地消を考え、薬物や添加物など、自らの平衡を乱すものを避ける。時間の経過にあらがわない。流れを止めず、足りているものをそれ以上取らない。それなのに私達は何をしてきたか。草食動物に肉食を強要し、あげく狂牛病を蔓延させ、集約的畜産から新型ウイルスを生み出し、抗生物質の多用によって耐性菌を作った。一度乱した平衡を回復するには膨大な時間がかかる。自分の分際を知り、足を知るということである。私達に必要なのは数値目標ではなく、生命観・自然観をめぐるパラダイムの転換である。

投稿者 zuiryo : 2010年03月24日 21:25

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