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2010年04月27日

立ち居振る舞い

昔、百丈禅師の処へ司馬頭陀という老居士がやって来て、近頃道場を開くにはまことに良い山を見つけたが、千五百人の弟子を持ちうる器量のある善知識でなければならぬ。和尚の会下にそれに適した人物があったらお世話願いたいと申し込んだ。そこで会下の第一座、覚首座を喚んで会わせたが不合格。次ぎに典座の霊祐を喚ぶと、一見してこれこそ千五百人の師となる徳があると判断した。ところが不合格になった覚首座が不満の意を示したので、二人を試験したと言う話しがある。司馬頭陀が霊祐こそ相応しい人物であると判断したのは、歩く姿と咳払いだったと言われている。この話を聞いたとき、そんなことで本当に人間の器量が見えるものかと思ったが、近頃そうかも知れないと思うようになった。毎年春に新到が入門してくると、早速参禅が始まる。室内での立ち居振る舞いを見ていると、凡そその人物が解る。誰もみな初めてで慣れない上、さらに特別な場所だという圧迫感もあって、異常に緊張するものなのだが、だから余計素の姿を見ることが出来る。見事にその人間の精神が現れるのである。近頃は親子でも知人友人の間でも、堅苦しい挨拶は抜きと言うのが主流だが、ちょっとした所作にも、その人の全体が現れるのだから、お互いによくよく気を付けなければならないと感じた。

投稿者 zuiryo : 2010年04月27日 10:03

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