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2010年07月15日
運動好き
殆ど運動らしいことは何もせずに、健康で幾つになっても元気溌剌という方が居られるが、羨ましい限りである。ところが私のように、毎日なにがしか運動を続けていないと、途端に体調が悪くなる者も居る。魚で言うとマグロのようのもので、生涯動き続け、止まったときが死というわけ。だから嫌でもジョギングやウオーキングや水泳などをして、くたくたになるほど体を使う。考えてみると損な話しである。私だって出来れば何もせずに健康でいられたらこんな良いことはないと思っている。知人で私と同様、毎日近くの山登りを続けている人が居る。先日などこの土砂降りの中、1日に2回も登って、へとへとになって寝込んだ人が居る。もうこうなると運動中毒、「運中」である。周りの者は、少々やり過ぎじゃ~ありませんかと言うが、本人はもうこの回転で日々動いているから、しんどかろうがともかくやり続けるのが一番快適なのである。運動後の疲労感が堪らなく心地良いのだ。さて先日も書いた「計るだけダイエット」その後、徐々にではあるが快調に減り続けている。知り合いの若い娘さんも私と同様この計るだけダイエットを続けているらしいが、どうもイマイチ減ってこないと嘆いていた。この差は何かだが、一般的に言われるのは、女性はこの計るだけダイエットの効果が出難いらしいのだ。単細胞と複雑細胞の違いかなと思っている。つまり単純に効果を信じて疑わず、余分なことは考えないことである。能天気が良いのだ。
2010年07月10日
静かな環境
うちの寺は比較的中心街に近いのだが、表通りから約百メートルほど参道があって、一番奥に位置しており、裏は山に囲まれているため静かである。ただ唯一難点は、夏の間、少し離れたホテルの屋上がビヤガーデンになり、多少ワイワイガヤガヤが聞こえてくる。以前はバンドを入れてスピーカーで騒音をまき散らしていたので猛烈に抗議して止めて貰った。その頃を思えば現在はまあまあというところである。これも夜の一時だけで、日中は静寂そのものである。菜根譚という書物を読んでいたら、こういう事が書いてあった。「静かな場所で考えが澄み切っていると、心の本当のあり方を見ることが出来る。暇なときに気持ちがゆったりと落ち着いていると、心の本当のはたらきを知ることが出来る。あっさりとして心がわだかまりなくおだやかであると、心の本当の味わいが得られる。心の鏡に写して自分の本心を見極め、真実でいつわりのないすがたを悟るのは、この三つの方法に及ぶものはない。」な~るほど!たしかに仰る通りである。しかしこういう静かな環境を得られるのはほんの一部の人だけで、隣と隣がくっつくように建っている住宅街では、とてもそんなことは無理な話である。ではどうしたら良いかだが、せいぜい休日には郊外の農村へ出掛けたり山へ行ったりして、静かなところで過ごす工夫をしてみては如何であろうか。私も嘗て暇を見つけてはよく山登りをした。登っている最中はしんどくて、何でこんな所へ来てしまったのかと後悔しきりなのだが、途中ふと佇んで静かに耳を傾けると、木々のざわめき、風の音、小鳥のさえずりなど、得も言われぬ心地になる。精も根も尽き果てて聞くこれらの音は、一層心に染みて、普段の生活では得られない貴重な瞬間である。さらに菜根譚ではこうも言っている。「静かな夜に鳴り響く鐘の音を聞いていると、夢中の夢が呼び醒まされ、澄みわたった深い淵に映る月影に見入っていると、この身以外の真実のわが身が、ほかにある事実をほのかに察知できるようだ」と。鐘の音がすっときえるにつれて心の結ばれも解けてゆく気がするのだ。
2010年07月09日
シロアリ被害
つい先日山内の和尚さんからシロアリにやられたので寺中駆除して貰ったという話を聞いた。途端にうちの方も心配になり業者に調べて貰ったら、案の定2,3ケ所既にやられている事が判明、こうなると全体的に駆除しないといけないそうで、ともかく頼むことにした。あっという間に二百万円が宙に舞った。大きな伽藍を維持するのはお金のかかることである。それも五年しか保たないというのだから、以後五年ごとに駆除し続けなければならないわけで、急に目の前が真っ暗になってしまった。折しも梅雨時で、ただでさえ鬱陶しい日々なのに、さらに憂鬱になった。ところで、先日埼玉の僧堂の老師と話していたら、そこでは広大な境内に一万本の紅葉を植え、今それが大きくなって秋は見事だそうである。昨年、天皇陛下がその紅葉をご覧になるためお越しに成られたそうである。その時の話しで、紅葉は除草剤が大敵で、周囲には決して薬剤を散布してはいけないと聞いた。な~るほど!うちの境内に新たに植えた紅葉がやたら痩せこけて次々に枝が枯れ、風前の灯火の理由がわかった。うちではじゃんじゃん除草剤を撒いていたのだ。その上リスがやってきては紅葉の表皮を囓って引っぺがすので、踏んだり蹴ったりである。そこにびっしりキクラゲが生えて、これでは紅葉残酷物語である。何事も知識がないというのは悲しいもので、もっと早く知っていれば、こんな惨めな紅葉にしなくて済んだのに。早速除草剤散布禁止命令を出した。シロアリと言いひょろひょろの紅葉と言い、どうもろくな話しはないこの頃である。
2010年07月04日
養護教員
学校の養護教員を目指して頑張っている女子学生と話しをしていたら、大変興味有ることを聞いたのでご紹介する。つい最近教育実習で、小学校の保健婦見習いとして3週間ほど現場に立ったそうだ。現役の保健婦さんは大変良い方で、親切にご指導頂いたそうだ。中にはこの関係が旨くいかず、苦労したという同僚の話などを聞くに付けても、自分の場合は本当に恵まれていたと感謝したという。さて現場の様子だが、休み時間になると小さな子供が行列を作るほどドドッと押し寄せるという。殆どはちょっと傷したとか、熱があるとか、あっちが痛いこっちが痛いと、そう大したことでもないのに、ともかく保健室にやってくる。3年生の子供が熱いというので冷えピタを額に張ってやったら、直ぐその後、「せんせい!治ったよ~!」、とわざわざ言いに来るのだそうで、可愛いったらない。保健室が一種の子供達の憩いの場になっているようで、大したことが無くともちょくちょく顔を出すという。中には、「せんせい!こんどの土曜日空いてる?」、なんと言う子までいて、参っちゃいましたと苦笑していた。その女子学生が年齢よりずっと若く見え、ちいちゃくて、可愛らしい顔をしているから、5,6年生ぐらいに成ると、まるで友達だと思っているようだ。その学校の教頭先生が、嘗て自分が小学生の時の担任だったそうで、当時の写真を見せてくれた。まん丸の顔を真っ赤にして写っていたそうで、懐かしかったと言っていた。就活となると、甚だ狭き門で、前途の厳しさが危惧されるが、折角志を持って頑張っているのだから、どうか無事に就職できますようにと念じた。
2010年07月02日
計るだけダイエットその後
ためしてガッテンの計るだけダイエットに飛びつき、1ケ月が過ぎた。始めた翌日、友人から、「無駄!無駄!無駄!・・・・」と連呼され、出鼻を挫かれ、あわや早くも挫折かという危機を乗り越え、遂に1ケ月やり抜いた。その結果、この単純にして一見何も意味の無いような折れ線グラフが、実に意味深いものだと悟った。友人の言うようにダイエットとは食えば太り食わなければ痩せる、この単純にして明快な論理は疑う余地もないのだが、「犬は胃袋で食べ人間は脳で食べる」と言う。単にお腹が空いたから食べているわけではないと言うことを実感した。空腹感は脳からの指令でそう思うので、だから「お饅頭は別腹よ!」なんて言っては、たらふく食べて尚ぱくぱく食うのだ。それとは反対に、何か心配事で頭がいっぱいになっているときは、どんなご馳走も食欲は湧かず、無理して食べても、砂を噛むが如き食事となる。と言うわけで、1ケ月続けた成果は体重2キロ減である。この間減量のために何か特別なことをしたわけではない。ごく普通に今まで通り食事をしていて、あ~ら不思議、自然に2キロ減量できたのである。この意味するものは何かであるが、無意識のうちに脳がコントロールして、私の適正な食事の分量を食べていたと言うことではないかと考えられる。つまり欲に駆られて、ガツガツ食っていなかったと言うことである。折れ線グラフをじっと見つめると、食欲と脳の関係を垣間見る思いであった。尤も数年前から、「一口百噛み」を実行しているので、嘗ての早食い自慢はとっくに克服し、誠に健康的食事法を実践しているわけで、それが更にこの計るだけダイエッテで加速したという次第である。次の1ケ月がまた大いに楽しみになってきた。お医者さんから10キロ痩せなさいと言われ続けているので、これもそう遠からず実現できるに違いない。
2010年07月01日
無人の寺
最近所用有って北陸へ出掛けたので、かねてより一度訪ねてみたいと思っていた、うちの寺と同名の高岡の瑞龍寺に参拝した。瑞龍寺で検索してホームページを開くと、最初にこの寺が出てきて、同じ名前のうちはつねに二番目に甘んじているので、何だか頭の上に沢庵石が乗っかっているような気がしていた。曹洞宗の古刹で、加賀百万石前田家の二代藩主利長公の菩提を弔うために三代藩主利常公によって建立された寺である。山門・仏殿・法堂は国宝に指定され、総門・禅堂・大庫裡等は重要文化財に指定されている。広大な敷地に一直線に建物が配置され、周囲は回廊で結ばれ、白砂と芝生がよく手入れされ、整然とした佇まいは誠に美しい。ところが境内に入って直ぐ気が付いたのは、何処にもお坊さんの姿が見られないのだ。また一番立派な建物の法堂の中は隅っこでおばさんがお守りは御札を売っていて、大きな張り紙に、「一つやいと五〇〇円」と書いてあり、香の代わりに藻草の匂いがただよっていた。法堂は元来最も厳粛な儀式である「上堂」を執り行う場所である。この寺が既に本来の寺としての役目は全く失われ、建築物を見せる観光寺院であり、さらにお灸をする治療院になっているのだ。そう思ってお詣りしたせいか、仏さんも何だか寂しげであった。近くにいた拝観券売り場のお爺さんに聞くと、修行僧は誰も居らず、殆ど無人の寺になっているようだ。立派な建物が林立しているから余計寂寞たる思いに駆られた。一般の家でも人が誰も住まなくなると、途端に傷んで、ぼろぼろになってくる。その点、さすが国宝級の建物で、それなりに維持されてはいるが、何ともパサパサして、潤いのない空気は否めない。その中に人間が居て、お経の声が響き、鐘の音が鳴って、香が漂ってこそ寺である。まるで魂の抜け殻のような感じがした。