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2010年09月12日

岩瀬文庫

先日、ともしび会(毎月1回講師を招きいろいろな分野の話を聞く会)で、名古屋大学の塩村先生の大変貴重はお話を聞くことが出来た。先生は愛知県西尾市の岩瀬文庫の蔵書や書簡を十数年来研究されており、特に手紙は大変興味深いものであった。幕府天文方の高橋作左衛門景保の帚星に関する事などは、江戸時代の科学水準の高さを知る。また太田垣蓮月書簡では、文中の歌といい、流れるような運筆と合わせ、品格と教養の高さが窺われる。そんな講義の中で、こういう話しをされた。江戸時代の日本人は人間界と神仏界を二つの円に描き、双方の円の重なる部分に生きる人間を、盲目の人・狂人・童子としたそうだ。この人達は今日の感覚では、自分たちより劣る者という見方をするが、決してそう言う考え方をしなかったという。むしろ純粋で一途で心の汚れていない貴い人と見たのだそうだ。目が見えないから、我々が見ることの出来ない世界を見る人、また狂人も単に精神を蝕まれた病人として見ず、より崇高な精神界を生きる人と見たのだという。子供にしても自分の所有物と見るのではなく、神仏の子と考えたのだそうだ。たとえばお能にしても、「櫻川」に登場する狂女のように、一途で純粋な心に、我々俗界に住む人間が失ってしまった気高さと真実の姿を見たのである。近年子供に対する親たちの対し方でも、独りよがりで横暴で、何でも自分の勝手に出来ると思っている。これは神仏に対する冒涜なのである。社会的弱者に対して支援の手を差し伸べることが大切なのは解るが、その発想の原点にあるものが少し違うのではないかと思う。弱いから可愛そうだから助けるのではなく、我々のように世俗の垢にまみれていない貴い人達だから、そこから我々は大いに学ばせて頂かなければならない存在なのだと、江戸時代の人達は考えていたのである。科学技術の発達は目覚ましく日進月歩で、江戸時代の人達がタイムスリップして現代を見たら仰天するに違いない。しかし精神界を見たらどうだろうか。何と酷い、落ちぶれ果てた人間になってしまったかと仰天するに違いない。

投稿者 zuiryo : 2010年09月12日 20:47

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