2011年04月10日
分際
若い学生に向かって、「学生の分際で・・・!」などと言うことが良くある。この場合分際の意味は身のほどとか、分限と言うことになるが、標題の意味は少し違う。福岡伸一という分子生物学者がこんな風に言っている。昆虫は自ら食べるべきものを限定し、棲む場所から活動する時間帯、交信する周波数、自ら排泄したものの行方さえ知っている。また誰にどのように食われかも。それは限りある資源をめぐって異なる種同士が無益な争いを避けるためである。生態系が長い時間をかけて作り出した動的平衡なのである。その流れを作っているのは他ならぬ個々の生命体そのものだから、確実にバトンを受け、確実にバトンを受け渡す。黙々とそれを繰り返しているのだ。これを生物用語で「ニッチ」と言う。全ての生物が護っている自分のためのわずかな窪み、生物的地位である。これを今、「分際」と訳してみよう。全ての生物は本能の最も高度な現れ方として自らの分際を護っている。ただヒトだけが自然を分断し、見下し、分際を逸脱しているのである。他の生物のニッチに土足で上がり込み、連鎖と平衡を攪乱している。ヒトは何が分際であるかを忘れ去っている。しかし他の生物のありようを見れば、分際とは何かが解る。例えば江戸時代の人達はずっと風土に根ざして暮らしていた。旬のものを食べ地産地消を考え、薬物や添加物など自ら平衡を乱すモノは避け、時間の経過にあらがわない。足(たる)を知っていたのである。しかし現在はどうだろうか。際限のない欲望の果てに、草食動物に肉食を強要し狂牛病を蔓延させ、新型ウイルスを生み出し、抗生物質の多用で耐性菌を作った。それでも自然界は何とか動的平衡を持ち堪えてきたが、しかしそれは万能ではない。先程も申し上げたとおり、分際を知るとは「足る(たる)」を知ることである。欲望には際限がないのだから、単なる数値目標ではなく、生命感そのもの、我々自身のものの見方、心の在り方の大転換ではないだろうか。小さな昆虫を見つめていると、生命の真理を垣間見ることが出来るのである。
投稿者 zuiryo : 2011年04月10日 10:33