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2011年06月02日

あとみよそわか

禅堂場では掃除を大変やかましく言う。寺を訪ねて山門に佇めば住職が解ると言われる。昔同僚で小僧をして居た者から聞いた話だが、師匠は毎朝庭を掃き、真冬に葉1枚落ちていなくとも掃くので、「無駄じゃないですか?」と言うと、「箒目をたてるのじゃ!」と言って黙々と掃いていたそうだ。禅僧とはそう言う者だが、幸田露伴という作家の掃除についての蘊蓄も相当なものである。娘の幸田文が随筆の中で詳細な遣り取りを書いている。例えばはたきをかける場面では、『はたきをかけますと言ったら言下に、「それだから間違っている」と、一撃のもとにはねつけられた。先ずは整頓が第一なのであった。次ぎに何をすると考えたとき、はたくより外に無い。「なにをはたく」「障子をはたく」「障子はまだまだ!」「わからないのか、ごみは上から落ちる、仰向け仰向け。」やっと天井の煤に気がつく。はたきが届かないときは仕方ないから箒で取るが、絶対に天上板にさわるな。煤の箒を縁側ではたいていたら叱られた。…ようやく障子をぱたぱたはたき始めると、待ったとやられた。「はたきの房を短くしたのは何のためだ、軽いのは何のためだ。第一おまえの目はどこを見ている。埃はどこにある、はたきのどこが障子のどこへあたるのだそれにあの音は何だ。嫌な音を無くすることも大事なのだ。あんなばたばたやって見ろ、意地の悪い姑さんなら敵討ちが始まったよって駆け出すかも知れない。物事はいつの間にこの仕事が出来たかというように際だたないのが良い。」毬(イガ)のような痛さをまぜて、父の口から飛び出してくる。「いいか、おれがやって見せるから見ていなさい。」房のさきは的確に障子の桟に触れて、軽快なリズミカルな音を立てた。何十年も前にしたであろう習練は、さすがであった。技法と道理の正しさは、まっ直に心に通じる大道であった。…掃き掃除は、とにもかくにも済んだ。箒と平行にすわって「ありがとうございました」と礼儀を取った。{よ~し」と返事が来た。起って歩きかけると、「あとみよそわか。」?、とふりかえると、「女はごみっぽいもんだから、もういいと思ってからももう一度よく、呪文をとなえて見るんだ」と云った。「あとみよそわかあとみよそわか。」晴れ晴れと引きあげて台所へ来ると、葦簀を透して流しもと深く日がさし込んでいる。』文章はまだまだ事細かく父親に仕込まれるようが書かれているが、明治の人間の生き方、生活振りなど、掃除を通して垣間見ることができ、大変面白い随筆であった。

投稿者 zuiryo : 2011年06月02日 20:14

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