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2011年06月19日

静寂

東山魁夷という高名な画家が、「静寂は人にとって神聖なもの、ここにあるのは森厳な自然の威容を前にして、人間の心に起こる敬虔なおもいである。」と言っている。現代は神経を苛立たせるような人工的騒音に囲まれている。排気ガスや汚水の垂れ流しなど、公害の最たるものだが、騒音をまき散らすのも、大きな公害のひとつである。前者が主に身体への悪影響という点から言えば、後者は精神への悪影響と言える。こちらは目に見えず形に残らないから一層被害は深刻である。卑近な例で言えば、選挙毎に一日中がなり立てる街宣車、果ては焼き芋屋の親父の下手な宣伝用歌がスピーカーで辺り一面響き渡り、やりたい放題である。昔は例えば金魚屋の売り声・納豆売り・シジミ売りなどの声、お豆腐屋さんのラッパなど、実に風情があった。以前ある山間部の観光地へ行ったら、不釣り合いな音楽が流れて、なんで?と、首を傾げたくなったことがある。うちの寺も市街地に隣接したところにあるので、否応なく街の騒音は入り込んでくる。幸い百メートル以上の参道の一番奥に位置し、背後は鬱蒼とした山に囲まれているので、まだ良い方だが、兎も角人の多く集まるところ騒音はついて回る。私が思うには、ヨーロッパの都市などに比べると、日本では街の景観と騒音には比較的寛容である。例えば建築なども耐震性や防火さえクリアー出来ていれば良いようで、都市全体としての美しさなどは問題にしない。商店の看板などもやりたい放題、ど派手なのが競い合って林立している。まあその品の悪さたるや、見られたものではない。さらに騒音についても、暴走族のバイク音などは問題外にしても、周りのことなどお構いなしである。さて話しを元に戻すが、「静かさ」の価値と意味について、人間の精神に与える大きさを改めて認識する必要があるのではないかと思う。静かさは人を敬虔な思いにさせるのだから。日本のある人がドイツ滞在中、娘さんが家でピアノを弾いていたら、直ぐに通りがかりの人から、喧しいから即刻止めるよう注意されたそうだ。ドイツではこれは当たり前のことだそうで、これなども静かさの価値観の相違なのだろう。これとは少し話が違うが、以前県の催しでドイツのミュンヘンに行ったことがある。その折りガイドさんから聞いた話に、ドイツでは毎週決まった日に、「窓ガラスを拭く日」というのがあり、これは絶対護らなければならないそうだ。時折作業中足を踏み外して落っこちる人もいるらしいが、やらなければならないらしい。当に命懸けの規則だし、都市の景観を美しく護るためにそこまでやるかと言う感じである。人がごみごみとひしめき合って住む市街地は、景観も騒音もお互い人様に嫌な思いをさせないような配慮がより必要なのではないかと思った次第である。

投稿者 zuiryo : 2011年06月19日 04:44

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