2011年09月13日
西鶴の小説
毎度聞いた話の受け売りで恐縮だが、ご存知井原西鶴の書簡体小説について興味ある話を聞いたので書くことにする。西鶴というと直ぐに好色一代男とか世間胸算用とか、江戸時代の下世話な大衆小説家と言う印象だが、塩村先生の講義を拝聴すると、特異希な才能を持った傑出した文学者だと言うことが解る。今回はその中の書簡体小説「万の文反古(よろずのふみほご)」を例に伺った。これは全編を全て手紙の遣り取りだけで物語にして行く手法で、相当高度なテクニックを駆使している事が分かる。具体的な話しに入る前にご参考までに言うと、江戸時代紙は大変貴重品で、現在のように使い捨てのものではない。勿論裏表を使い、反古紙になったら保存しておくと、紙回収屋が幾らかで引き取って行く。襖の下張りやその他結構使い道はまだまだ充分あったのである。で、そう言う文の反古を寄せ集めた物語という体裁を取っている。この物語は出張中の父親が息子に出した手紙で、米の相場が下がったために武士が貧窮し、ために商売でも大部損がいって、赤字になって仕舞った。今のお金で言うと四千五百万円ほどの不足、そこで倒産という次第だが、その前にこっそり田舎に土地を買って、ちゃっかり倒産後の自分たちの生活の算段をするという話し。ざっとこんな調子で進んで行くのだが、挿絵でもいろいろなことが分かる。中に若衆(少年の奉公人)は、振り袖に若衆髪で描かれている。今日では振り袖と言えば若い娘の着物だが、江戸時代は少年の着物だったのである。また髪型は今日の相撲取りの丁髷(ちょんまげ)である。人間界と神の世界の二つの円が重なる部分に生きているのは、子供・翁・盲人・狂人と言われている。つまり相撲取りは童子の世界で生きている者なのである。こういう言い方が今日の世の中で認められるか否かは別にして、つまり相撲取りは髪型からも分かるように、人間界と神の世界の交わるところで生きている。だから世俗の倫理観で一括りに出来ないのである。例えば最近社会問題にもなった八百長、まっ、生々しい金の遣り取りは許されないにしても、所謂人情相撲などは、目くじら立てて言うべきではない。良い意味で人間界を超越したところで生きているのだから。以前信者さんで大変な相撲ファンがいて、毎年名古屋場所観戦に招待されたことがある。いつもテレビで見ているお相撲さんを目の当たりにして、可愛らしい相撲人形を見ているようだった。化け物みたいに図体は大きいのだが、それで居て何とも可愛らしく、肌の色つやも、まるでワックス掛けて磨いたようにピカピカ光っていた。その美しい事と言ったら無いのだ。これは我々とは別世界の人達だと実感した。相撲界は現代の我々の考え方だけで計ってはいけない世界なのではないかと感じたのである。そう言うことを前提にして我々は相撲を楽しんでいたのである。こういう相撲取りに対する塩村先生の見方も何だか解るような気がした。これには当然賛否両論もあるだろうが、一つの考え方である。西鶴の書簡体文学から飛んだところへ話が行ってしまったが、もう一度西鶴文学を見つめ直してみる必要があると感じた。
投稿者 zuiryo : 2011年09月13日 04:52