2012年03月05日
継承
一般寺院でもスムーズに次の世代へ継承して行くことは並大抵ではない。昔のように親の言うことは絶対で、嫌でもおうでも跡を継ぐのが当たり前の時代ではないから、師匠は頭を痛めるのである。ましてや僧堂ともなうと、法の継承が第一となるから、20年近く頑張って貰わなければならないわけで、そうざらにそんな人材が居るわけではない。育てるこちらも年齢や体力的なこともあるから、願心を持った弟子と旨く遭遇しないとスムーズな継承は成り立たない。では何処の僧堂もこの辺が旨くいっているかというと必ずしもそうではない。突然老師が遷化され、継承者を決めていないまま亡くなった。そうなるといったいこの僧堂の跡は誰が継ぐのかである。常識的に言えば生前はっきりとした意思表示がなければ後継者はいないことになる。本山にでも申請して然るべき人を派遣して貰うことになるわけだが、決してそんなことはしない。各僧堂にはいろいろな取り巻きが居て、自分たちで決めて行く。そうなると秘密のやりとりで法は伝えられるのだから、亡くなった老師と弟子の間でしか分からないわけで、いくら僧堂に頻繁に出入りしているからと言って、老師に代わって任命することは出来ない。しかしどういう経過をたどり議論されたかは知らないが次の老師が誕生している。何とも不思議なことであるが、それが現実である。私はだからそんな後継者はいい加減な者だと言うつもりはない。何故なら、では真に法を継承したとはどういう事を言うのかである。公案を一定数、数えたからOKと言う話ではない。極端な言い方をすれば無字一則でも良いのだ。つまり法を継承するとは法の如く修行の日々を一生掛けて忠実にやり遂げる決意をした者のことである。自分のことを言えば師家になりたての頃は未熟そのもので、振り返れば恥ずかしい限りである。運転免許を取ったばかりの新米運転手と同様、危なっかしくて見ちゃ居れん。雲水指導の上でも何度も痛い思いを繰り返しながら、自浄錬磨して行くのである。是は辛く長い修行である。初めて僧堂に頼みましょうを掛けて丁度50年になった。これを節目にもう一度あらたな気持ちで頑張りたいと思っている。
投稿者 zuiryo : 2012年03月05日 05:03