2012年03月18日
高野山詣り
東京から坐禅会に参加した友人が、今日はこれから高野山へお参り行ってきますと言う。それほどの年齢でもないが彼は大変信心の篤い人で、1月はお伊勢さんに参ってからお寺にやってきた。龍の置物を土産に頂いた。ついでにお参りと言うにはうちの寺とお伊勢さんは相当方角が違うので、それなりに覚悟して早く出立してこないといけない距離である。お伊勢さんは亡くなられた母上が大変信仰していたところだと言うことで、母親に代わってお参りしたわけである。さて今回の高野山は、かねてから一度はお参りしたいと念願していたそうで、ようやくチャンスが訪れたと言うことらしい。お山の上はまだ相当寒い頃と思うが、岐阜からでもかなり時間が掛かるので、余程「行く!」と心に決めないと、ついでに行けるようなところではない。私が嘗て京都で小僧をしていた頃、いよいよ僧堂に掛搭というとき、「一端僧堂に入門したら私的に出かけることなど出来なくなるから、今のうちにいっぺん高野山へお参りに行ってきたらどうか」、と師匠に言われたことがある。自分でも高野山へは行ってみたいと思っていたので、早速許しを得て出かけた。その時師匠が、「他の寺は向こうから風が吹いてくると自分の身体の周りをすり抜けて行くが、高野山の風は身体の中を通り抜けて行くぞ!」と言った。「そうですか、身体の芯を風が通る!」。高野山に着いたのが午後、まずは本坊や巨大な伽藍が林立する境内をお参りし、沢山ある宿坊のうち行き当たりばったりで目に止まったお寺にお願いすると快く泊めてくれた。翌朝、約2キロの参道を歩いて奥の院へお参りした。樹齢何百年という大杉が林立する中、梅雨の雨間のうっすら霧が立ち込め、無人の参道を歩いて行くと、一陣の風が吹いて、すうっと身体の芯を通り抜けていった。な~るほど!師匠の言ってたのはこれか!と思った。と言う話を彼にして、どうぞ身体の芯を通り抜ける風を味わってきて下さいと申し上げた。遙か半世紀も前のことだが、昨日のことのように想い出が蘇った。
投稿者 zuiryo : 2012年03月18日 14:02