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2012年04月30日
卓宗会
私が住職してから間もなくして、朝の勤行中突然雲水が苦しみだし、救急車を呼んで近くの病院に担ぎこんだのだが、その時には既に心臓は停止状態、電気ショックを何回か試みたものの、あっという間に死んでしまった。私も雲水達も狐につままれたような気分で、呆然とした。医師の診断は急性心筋梗塞と言うことだった。後日親御さんからそう言う病気を兼ねてから持っていたのか聞いたところ、全くないというのだから、益々不可解な死だった。ご両親の落胆は勿論だが、我々もついさっきまで一緒にやっていたのだから、何とも納得のいかない思いであった。それから残った者でしばしばお墓詣りをするようになった。三重県の海岸線が入り組んだ交通不便な所だったが、無念な思いで死んだ同僚を思いお詣りした。そんなことがきっかけで、当時居た者の仲間で彼の僧名を付けた会が設けられ、三重県方面の温泉地に一泊してお墓詣りをするのが恒例になった。これが卓宗会のそもそもの発足理由である。その後暫くこのパターンで続けられたが、そのお寺も老僧が亡くなられ、お母さんはご長男の所へ身を寄せられ、全く面識のない後住さんが入られた。又当時を知るものも少なくなり、名前だけ残って、今は私の元で修行した連中の年1回の集まりに変わった。今回は小田原の会下の和尚が幹事役になって、箱根に集まった。私にとって箱根は小さい頃の想い出が沢山詰まった地で、久しぶりに訪れ懐かしさで一杯になった。生憎の雨降りでお天気には恵まれなかったが、嘗てどうしようもないガキ連中が、今では立派な和尚さんになっている姿を見るのは、嬉しいものである。ところで、勿体ないような豪華な部屋を使わせて貰ったのだが、少々枕が堅く、高めだったため、翌朝首肩がぱんぱん、帰って早速いつもの中国鍼へ出かけ治療して貰ったが
、未だに首がうまく回らない。さりとて枕を抱えて旅行と言うわけにも行かず、本当に厄介な首を持ってしまったものだ。
2012年04月29日
土屋禮一展
昨日は大垣市の「スイトピヤ20周年記念・土屋禮一展」の開場式に行ってきた。土屋先生はうちの本堂の障壁画を奉納して頂いた方で、今回も上間の間の「瑞龍図」をお貸しして展示した。10時からの開場式には地元の方々や日本画家など遠近より沢山来られ、先生の評判の高さを垣間見る思いであった。又同時に絵本作家の奥さんの絵も沢山展示され、これが又大変面白い作品ばかりで、大いに楽しませて頂いた。サドルにTシャツを着せた「サドル犬」・蛙の膨大な数の収集品を様々に組み合わされた作品等々、どれもユニークで、いかにも奥さんらしくて、ほほえましい限りであった。市長さんや先生と用意された昼食をご一緒した後、午後1時から先生と熊崎先生の対談があった。この中で土屋先生の話が我々の禅に、ぴったり添っていたのには、改めて驚かされた。桜の堂々たる古木に、僅かに花びらが描いてある作品と、曲がりくねった椿の老木に小さな真っ赤な花が描いてある、この二つの作品には特に心惹かれた。どちらも描かれた老木は一応存在するというのだが、出来上がったものは現実のものとは全く違って、それぞれの老木に込められた土屋先生の心の表現だという。先生が最も敬愛する恩師と一緒に雪の中を歩いたとき、ついに最後まで先生のお陰ですと言えずに別れたことがあるそうだ。お礼の一言も言えずついに亡くなられてしまってから、はらはらと舞う雪を見ると先生の顔が浮かび、自分にとって雪は先生の形見ですと言っておられた。また少年の頃、父親に背いて独りぽっち原っぱに寝ころんで見たときの雲は、父親の化身ですとも言っておられた。この世のものはことごとく自分の心の現れですと断言されていた。これらは全く禅そのもので、芸術の世界も究めた人というのは、図らずも禅に符合するのだということを知り、我が意を得たりの思いであった。
2012年04月21日
真似乞食
私は30年来書道の先生についてずっと稽古をしている。瑞龍寺に住職して間もなくある信者さんから墨跡を書いて欲しいと頼まれた。一応押す印はこちらへ転住した折り、鎌倉の友人が勿体ないような上等な印をプレゼントしてくれた。これからは墨跡を書く機会もあるでしょうから、その時にどうぞお使い下さいという温かい気持ちである。押す印はそれで準備は整っているのだが、墨跡を書くのは生まれて初めてである。早速紙屋へ行って半切を購入、いざ墨をすって何枚か書いてみたのだが、これが酷いの何のってとても見られたものではない。ましてや他人様に貰って貰えるような代物ではないのだ。しかし一端引き受けたからには出来ませんでしたと言うわけにも行かず必死な思いで何枚も何枚も書いた。書けば書くほどへたっぴ~で本当に困り果てた。仕方なく少しましなのを一枚選び出し差し上げた。爾来墨跡が頭痛の種になった。そんなある時、信者さんの家にお邪魔したとき、床の間に立派な書が掛けたあった。「これはどなた様のですか」と、お尋ねすると、高名な書道の先生の書かれたもので、この先生に家に毎月来ていただき、仲間数人と稽古をしていると言う。早速私も仲間に入れて貰うことにした。これが縁でずっと稽古を続けている。書道の基本は先生のお手本をひたすら真似ることである。我流はいけない、自分を無にして忠実に真似をすることが稽古なのだ。私はそれを30年間続けてきたので、今では先生も感嘆の声を上げるほどそっくりになった。半切を2枚書いて貰い、それを横に置いて私が書く。そっくりなんてものじゃない、瓜二つなのである。だから書き終わったら先生のお手本の落款の下に四角いマークを付ける。そうしないとどっちがお手本か解らなくなるからだ。このように真似も永年続けると真似力がついてくる。ところが困ったことになったのだ。今度は何をしてもすべて真似てしまう癖が付いてしまった。10年ほど前から絵を始めた。スケッチへ出かけると、必ず先生の右後方に位置を決める。まず鉛筆でざっとアウトラインを決め、それから精密に書き上げて行くのだが、私は肝心の景色の方は全然見ずに、目は先生の手元から離れないのだ。先生がぴ~と書くと同時進行で私もぴ~と書く。絵の具で彩色する場合も同様で、ぺっぺっと先生が塗るとすかさず私もぺっぺっと塗る。だから出来上がった絵は先生とそっくりになる。真似力も時と場合で、スケッチの真似はいただけない。しかし30年真似のキャリアは染みこんでいてどうしてもそうなってしまうのである。いかにオリジナルの絵を描くか、これが目下私の一番の悩みなのである。
2012年04月17日
カラスのカー子
ハチが死んで1年半、生前可愛がってくれたハチファンが沢山居て、花とお供えは絶えたことがない。そこに目を付けた猫のノラクロとカラスのカー子が、お供えするやいなや何処からともなく遣ってきて、さっともって行く。特にカラスのカー子は相い向かいの電話線に止まって待機しているのだから堪ったものではない。ところが猫のノラクロも負けてはいない。それよりも素早くくわえて行ってしまう。地上戦と空中戦の攻防である。今日もカー子の方が負けでガクッと来たのか、入れ物をくわえて車庫の屋根の棟に持って行ってしまった。見ると棟にちょこんとハチのお供え用入れ物が陽に輝いてピカピカしているではないか。聞くところによるとカラスは光り物が好きだそうで、腹いせもあって持ち去ったようだ。梯子を掛けて取りに昇らなければいけないかな~と思っていたら、春風に飛ばされてころころ下に落っこちてきた。さて一方猫のノラクロだが、最近は雲水共が可愛がってこまめにエサを遣るものだから、すっかりお寺の飼い猫気分で、側を通っても平気で毛ずくろいなどして、逃げもしなくなった。中でもとりわけ動物好きの一人の雲水は頭をなでたりしてもへいきだそうだ。野良猫は近くまでは寄ってきても決して身体には触らせないと聞いたことがあるが、ついにここまで来たかと言う感じである。何だか私もノラクロをなでてやりたいな~と言う気がしてきた。
2012年04月16日
急遽植樹
先日恒例の市営墓地へ一人花見に出かけた。4月中旬になって満開とは驚きだが、ぽかぽか春の陽気に誘われ静まりかえった墓地の花見もなかなか良いものだった。しかし境内に桜の木が1本もないというのは何とも寂しい限りで、山内7ヶ寺を代表してうちで植えることにした。出入りの植木屋にその旨依頼すると、ちょっと植樹の時期としてはやや遅きに失しており微妙なところですが、まっ何とかやってみましょうと言う返事。桜はご存じのとおり花が終わると梅雨時に掛けて虫がわき、それが済むと今度は半年以上掛かってぱらぱら葉が落ち続けると言う厄介者。そこで植える場所は落ち葉があまり目立たず、花はよく見える格好の場所を見つけた。高さ2メートルほどで既に花が着いていて小さな花見が出来た。このついでに高野槙を移植した。これは10年ほど前、四国88ヶ所遍路の旅を、全行程歩いて回り、最後、高野山にお礼参りした折り記念に高野槙の苗を買ってきた。居室の前の僅かな場所にちょこんと植えておいたのが、年々成長して2メートルほどにもなった。すくすく成長してくれたのは良いのだが、周りの木の邪魔になってどうにも不都合。元来大木になる木なので、駐車場のわきの、以前はなの木の大樹があって、それが枯れてしまった切り株のわきに植えた。いずれも木を植えるには時期的に問題なのだが、何とか無事に育って欲しいと念じている。
2012年04月05日
津葬(しんそう)
今日は私が大変お世話になった和尚さんの津葬があった。朝からどんより曇って、時折ぽつりぽつりと雨も降り、例年なら桜の満開の時期にも拘わらず、小寒く冷え冷えとした日であった。昨年6月突然癌の宣告を受け、それからの闘病9ヶ月間は心身をすり減らすような日々であった。勿論ご本人と奥さんが一番しんどかったわけだが、さりとて一端不治の病に冒されてしまえば如何ともし難い。私は瑞龍寺に入寺する前から様々なご指導やお骨折りをお掛けしたので、和尚さんに対する感謝の念は一入である。特に入寺の翌年から始まった全伽藍の再建・開山五百年遠諱・受戒会・報恩接心等々、総て背後から支えて下さった。その後も尼僧堂の設立・開単・堂頭・禅学林寮舎等々、新たに僧堂を一つ作ったわけで、これも苦労の連続だった。勿論これには資金的援助を全臨済、黄檗から頂いたので、そっちの苦労はなかったが、しかしお金があれば出来るというものでもない。ハードとソフトと言うが、この両方が揃わないと機能しない。特にソフト面が重要で、規矩のもとに規律のある僧堂修行がスムーズに行われるように準備万端整えるのは本当にしんどかった。入ってくる雲水は何も解らないわけだから、放っておけば無茶苦茶になってしまう。これら総て和尚さんが仕切って段取って頂いた。このように私が瑞龍寺に来て以来30年間まるっきりお世話の掛けっ放しで、何もお返しが出来ないうちにあっという間に亡くなってしまった。まだまだ生きてやりたいことが沢山あっただろうに、どれほど無念だったかと思うと、胸が詰まる。本当に世の中は理不尽なものだと悔しくて仕方がない。
2012年04月04日
突然暴風雨
昨日は朝からしとしと雨が降って小寒く嫌な日だな~と思っていた。テレビで風が強まるので注意をするようにと言っていたが、その割にはたいしたこともなくたかをくくっていた。ところが午後3時半、突然猛烈な風、まるで台風並みである。同時に猛烈な雨、これが又酷い降りで、ただごとではない。まるで滝のよう、1ケ所屋根の構造上水回りの悪いところがあるので、雲水に様子はどうか見に行かせたところ、現場までとても近づけませんという報告。ごもっとも、この滝の中では一歩も外に出ることなど出来ない。居室から本堂の屋根を眺めたら雨がまるで川のように流れ樋などあってなきが如く、放物線を描いてダイビングして居るではないか。こう言うのを時間何ミリというのか知らないが、兎も角こんなの見たことない。しかし激しかったのはほんの一時間ほどで、あっという間にやみ陽が差してきた。この変化の極端なのにも驚かされた。境内一面が大河のようだったのも排水設備をばっちりしてあるので、さ~と一気に引いた。今日は排水溝が木の葉や枝で詰まったところを掻き出し、庭一面に木の葉が落ちたので大掃除となった。朝から一斉にウグイスが鳴き、爽やかな風が吹き、花粉が舞って何となくくしゃみが出そうだった空気もすきっとした。急に洗濯がしたくなり(と言っても洗濯機がやるわけで、私は放り込んでダイヤルを回しただけだが)、汚れ物もすべて無くなり良い気分である。