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2012年06月27日

シカに注意

このところ梅雨も一休みのようで、予報では雨となっていてもどんより曇り空のままで何とか降らずに保っている。この時期いつも困るのは洗濯物が乾かないことである。尤も近頃の洗濯機は乾燥コースを選択しておけばパリパリに乾いて出来上がるが、こうすると衣類全体がちぢんで特に肌着などは窮屈になるので、出来るだけ自然乾燥することにしている。今日も洗濯したが曇り時々薄日のお陰で夕方にはほぼ乾いた。さて午後から裏山ウオーキングに出かけたが、登り口の小さな公園に、「シカ注意!」の看板が立てられていた。以前うちの寺に大きな猪が侵入して大暴れ、綺麗だった杉苔をことごとくめくり上げ、惨憺たる有様に唖然としたことがあった。その後も毎夜現れては庭を荒らし放題、ついに堪らず裏山中を防護用の電線を張り巡らした。お陰でそれからは間際までやってきてもUターンして帰って行く。そこへ「シカ注意」の看板である。猪の次はシカだ!当寺は岐阜市でも繁華街に隣接するほぼ中心地なのだが、金華山の一番先っぽに位置しているので、奥の山とは繋がっているわけで、ついにシカまで出没するという羽目になるのである。シカの害は植林した苗木の新芽を食べてしまうので、山を持っている人には大変迷惑な害獣になる。裏山は保安林になっていて木々も大きくなっているので、新芽の害はないように思うが、角で突進してきたらひとたまりもない。まだ熊出没の看板が出ないだけましなのかとも思う。猪やシカをしとめて冬の貴重な蛋白源にしていたのが、動物保護の観点から様々な制約を受けるようになったり、また簡単にスーパーで肉類を購入できるようになり、わざわざ一日中暇材掛けて捕る必要が無くなったために異常に繁殖してきたのだろう。そのうち奈良公園のように岐阜市内の舗道をシカが悠々と歩く姿が見られるようになるのかも知れない。以前友人が、「ジビエの会」と言うのを催され、山奥の小屋で取れたての獣を食べたことがある。これが意外にいける。まっ、こんな話は別にして、40万都市のど真ん中で「シカ注意」の看板には驚かされた。

投稿者 zuiryo : 21:15 | コメント (0)

2012年06月21日

自粛ムード

昨年の東日本大震災直後は、日本国中自粛ムードであった。岐阜でも7月と8月2回、地元新聞社主催の長良川花火大会が毎年催され、見物客が周辺地域からどっと押し寄せ大変な賑わいとなる。これもすぐさま中止を決めた。ところが暫くして世の中の風向きが変わり、そう一辺に日本国中自粛すると唯でさえ暗い世相が益々暗くなるばかりか、景気も悪くなると言うわけで、普通にしたら良いではないかという風になった。で、岐阜の花火大会、一端中止を決めて翻すわけにも行かず、長良川河畔に何千人も集めて追悼の大線香花火大会をやることになった。これにはいささか笑えてきたが、その後どう話し合われたのか今度は県主催の追悼花火大会が催された。聞くところに寄れば通常の規模の何十分の一程度の誠に寂しいものだったそうだ。月日が経って、今では東北方面へは大いに観光に出かけて沢山お金を使って下さいというキャンペーンがしきりだ。ちょっとの間に変われば変わるものである。さて先日新聞のコラムにこんな事が載っていた。『私は昨年3月18日、都内の大田区民ホールで成田さん(ブリュッセルで行われたエリザベート王妃国際音楽コンクールのバイオリン部門で2位に入った)のリサイタルを聞いた。3・11からわずか1週間、被災地の死者の数はどこまで膨らむか見えず、福島第一原発事故も深刻さを増していた。自粛ムードも広がり、音楽会も次々に中止になっているときだった。聴衆は100人前後だったろうか。小ホールの会場は7,8分の入りで、プログラムと一緒に案内Iが配られた。被災地の死者を悼み、冒頭「G線上のアリア」を演奏するが、終わっても拍手をしないで欲しい、と言う内容だった。演奏会は始まった。やや照明を落としたスポットライトの中で、拍手もなく登場した成田さんのバイオリンが奏でるバッハの「G線上のアリア」は染みいるように入ってきた。抑えた情緒性と確かな技巧、鋭敏な感性、音の一粒一粒がキラキラと発色しながら、聞く者の心の奥へ落ちて行く。死者を悼むという脈絡の中で、曲は新たな生命を吹き込まれていた。日本では悼むというと黙祷だが、欧米では音楽を通じて悼みを共有することが多い。ミサ曲や想い出の曲であったりと、それを聞きながら故人をしのび、心を静める。例えば米同時多発事故の追悼では作曲家サミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」が広くその役目を果たした。日本でも3・11につながる音楽や曲をもっている人は少なくないだろう。私は心を静めてくれた成田さんの演奏に行きつく』。

投稿者 zuiryo : 15:53 | コメント (0)

2012年06月05日

思考力

毎度他人の文章の受け売りで恐縮だが、近年若者の思考力が著しく衰えていると言われている。インターネットやテレビが情報を垂れ流す中、考える力が衰えている。現代若者世代が「ネットの海」にしたっている実体は数字のうえにも表れている。仕事以外でネットを使う時間は20代で平日1時間8分、05年の前回調査より39分も長くなっている。この時間はスマートフォン時代になって一気にのびそうな気配である。アンケートではスマホに替えて利用時間が2倍以上と答えた人が4割を超えている。ちなみに平日、本を読む時間は20代男性が21分、女性が18分、全世代平均では13分だ。1日24時間の消費活動で、生きていくために欠かせない食事とか睡眠の一方、自由な時間をどう使うか、それが自分を磨くこと、生活を豊かにすることにつながる。その一つが専門領域の雑誌や本などの活字を読むことである。「ネット時間」が1日を浸食し、人々の思考や行動に影響を与えていると考えてもおかしくない。松岡正剛氏の指摘によれば、「世の中の情報の流れは難問も軽問も深い現象も浅い現象も、同じようにメニュー化された情報、奥行きや大小のないものとして整理され、1万人が亡くなる事件も、1人のおばあさんが孤独死することも、情報としておなじ扱いになってしまった。これは機器そのもののスモールサイズ化によって加速され、ついには140字というツイッターの文字数になってしまった」。例えば携帯電話が普及し始めた頃、電話番号が覚えられなくなった、と言う声を良く耳にした。確実に記憶力が低下したのである。またカーナビゲーションがほとんどの車に付くようになって、頭の中から地図が消えて無くなった。情報の洪水の中に生きながら、人々は事の軽重が分からなくなり、思考力が摩滅し衰退しているのである。藤原正彦氏は、「若い人だけではなく、70代くらいまで本を読まなくなり、ものを考えずに生きている」と手厳しい。「文学、芸術、思想、歴史などの教養は、確かに腹の足しには成らない。しかし、人は活字を通じてそれらに触れることで時空を超え物事の本質を見抜く大局観や人間観、長期的視野を身に着けてきた。インターネットでは情報を゛身に着ける″だけ。時空を超えるという点でも、活字ほどの深さがない。つまり教養というものはインターネットでは身に付かないと言うことだ」。教養とは人が生きるすべであろう。人生でぶつかるさまざまな問題を解決する手立てと言える。だが現代人は、その生きるすべさえ、すべてインターネットから引き出せるという感覚、いや錯覚に陥っている。教養がなくとも生活に困らないのだ。最近電子書籍の普及が言われている。活字の本は表紙があって目次、本文、あとがき、奥付がある。このパッケージ力が活字の世界の奥行き感を生んでいる。紙の新聞に政治面や社会面など、大中小の見出しがあることで濃淡を付けている。けれども電子書籍はこうしたパッケージ性を平面化してしまう。衣食にたとえると、普段着、ファーストフードだけで済ましてしまう。思索力を身に着けるという点では逆方向に進んでしまっている」。大武氏も、「新聞は見出しによって読んだり読まなかったりする。つまり読むという意識が強いから、頭にとどまる。理解しにくい箇所は繰り返し読む。それが考えることにつながる」と話す。又別の方面から言えば、例えば育児もあらゆる面で便利になり、考える力とか、人に伝える力が早い段階で奪われている。幼稚園で手洗い場の蛇口を前に、園児が水が出ないと立ったままでいる。先生が蛇口のひねり方を教えようとすると、母親がセンサー式にならないかと言ってくる。で、改築しちゃう。深く考えない現象は、今の政治にも広がっている。国民の意見に対症療法的に答える政治しかできなくなっている。大衆迎合の極みである。国民の心の奥底、本当の望んでいることは何かを洞察する事が大事なのに、世論調査に一喜一憂する。その点ではメディアも同罪だ。この国の行く末にあるのは絶望だけなのか。「人間は考える葦である」。パスカルが泣いている。

投稿者 zuiryo : 14:44 | コメント (0)