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2012年06月05日
思考力
毎度他人の文章の受け売りで恐縮だが、近年若者の思考力が著しく衰えていると言われている。インターネットやテレビが情報を垂れ流す中、考える力が衰えている。現代若者世代が「ネットの海」にしたっている実体は数字のうえにも表れている。仕事以外でネットを使う時間は20代で平日1時間8分、05年の前回調査より39分も長くなっている。この時間はスマートフォン時代になって一気にのびそうな気配である。アンケートではスマホに替えて利用時間が2倍以上と答えた人が4割を超えている。ちなみに平日、本を読む時間は20代男性が21分、女性が18分、全世代平均では13分だ。1日24時間の消費活動で、生きていくために欠かせない食事とか睡眠の一方、自由な時間をどう使うか、それが自分を磨くこと、生活を豊かにすることにつながる。その一つが専門領域の雑誌や本などの活字を読むことである。「ネット時間」が1日を浸食し、人々の思考や行動に影響を与えていると考えてもおかしくない。松岡正剛氏の指摘によれば、「世の中の情報の流れは難問も軽問も深い現象も浅い現象も、同じようにメニュー化された情報、奥行きや大小のないものとして整理され、1万人が亡くなる事件も、1人のおばあさんが孤独死することも、情報としておなじ扱いになってしまった。これは機器そのもののスモールサイズ化によって加速され、ついには140字というツイッターの文字数になってしまった」。例えば携帯電話が普及し始めた頃、電話番号が覚えられなくなった、と言う声を良く耳にした。確実に記憶力が低下したのである。またカーナビゲーションがほとんどの車に付くようになって、頭の中から地図が消えて無くなった。情報の洪水の中に生きながら、人々は事の軽重が分からなくなり、思考力が摩滅し衰退しているのである。藤原正彦氏は、「若い人だけではなく、70代くらいまで本を読まなくなり、ものを考えずに生きている」と手厳しい。「文学、芸術、思想、歴史などの教養は、確かに腹の足しには成らない。しかし、人は活字を通じてそれらに触れることで時空を超え物事の本質を見抜く大局観や人間観、長期的視野を身に着けてきた。インターネットでは情報を゛身に着ける″だけ。時空を超えるという点でも、活字ほどの深さがない。つまり教養というものはインターネットでは身に付かないと言うことだ」。教養とは人が生きるすべであろう。人生でぶつかるさまざまな問題を解決する手立てと言える。だが現代人は、その生きるすべさえ、すべてインターネットから引き出せるという感覚、いや錯覚に陥っている。教養がなくとも生活に困らないのだ。最近電子書籍の普及が言われている。活字の本は表紙があって目次、本文、あとがき、奥付がある。このパッケージ力が活字の世界の奥行き感を生んでいる。紙の新聞に政治面や社会面など、大中小の見出しがあることで濃淡を付けている。けれども電子書籍はこうしたパッケージ性を平面化してしまう。衣食にたとえると、普段着、ファーストフードだけで済ましてしまう。思索力を身に着けるという点では逆方向に進んでしまっている」。大武氏も、「新聞は見出しによって読んだり読まなかったりする。つまり読むという意識が強いから、頭にとどまる。理解しにくい箇所は繰り返し読む。それが考えることにつながる」と話す。又別の方面から言えば、例えば育児もあらゆる面で便利になり、考える力とか、人に伝える力が早い段階で奪われている。幼稚園で手洗い場の蛇口を前に、園児が水が出ないと立ったままでいる。先生が蛇口のひねり方を教えようとすると、母親がセンサー式にならないかと言ってくる。で、改築しちゃう。深く考えない現象は、今の政治にも広がっている。国民の意見に対症療法的に答える政治しかできなくなっている。大衆迎合の極みである。国民の心の奥底、本当の望んでいることは何かを洞察する事が大事なのに、世論調査に一喜一憂する。その点ではメディアも同罪だ。この国の行く末にあるのは絶望だけなのか。「人間は考える葦である」。パスカルが泣いている。
投稿者 zuiryo : 2012年06月05日 14:44