« 2013年11月 | メイン | 2014年01月 »
2013年12月30日
年末大掃除
雲水は勿論のことだが、私も自分の部屋は年末大掃除をする。ところが今年は畳替えの時、自動的に大掃除をする羽目になったので、後の所はざっとやってお仕舞いにした。年々老化の波がひたひたと忍び寄り、万事億劫になってきたのだ。特に立ち上がるときが一番堪える。私はほぼ毎日裏山をせっせと1時間20分歩いて、普通の老人より余程足腰を鍛えているのだが、畳生活で座ったり立ったりの動作が多く、その度に、「よいっしょ!」とかけ声を掛けてよろける。そんな時は嫌でも老化を意識せざるを得ないのである。昨日も今日も午前中ちらちらと雪が舞った。軒下の寒暖計は4℃で張る付いたまま、ちっとも動かないので壊れたかしらと思うほど。幸い私の部屋は南向きで極めて日当たりは良いので、部屋ですくんで居ればぽかぽかである。この間ある人から子馬(foal)の小さな人形を貰った。午年生まれだからである。これを日当たりの良いところに置いておくと、ぴょこぴょこ頭が動く仕掛けになっている。大忙しで働いている人も沢山居られるというのに、こんな暢気なことを言っていたら叱られそうだが、こっちも人が寝ている午前3時半から1日が始まるのだから、勘弁して貰おう。
2013年12月29日
畳替え
来年の遠諱に合わせ、前回見送った部屋を順次畳替えした。最後に自分の居室3部屋をついこの間やって貰った。居室だから畳の上には種々雑多、台や机などが一杯ある。それらを悉く別の部屋に一端移し、空っぽにしてからやって貰うという段取りである。日常常に使っているエリアだから、いろいろ不都合なこともあったが仕方ない。数日間がらんどうのところで寝た。折悪しく畳屋のご主人が腰痛になり、端から見ていてもお気の毒な状態である。「はやくちゃっちゃっとやれ!」と言いたいところだがそれも出来ず、じっと我慢の数日だった。漸くすべて納まり机や台なども元に戻し青畳の上にどっかと座った。いや~!気持ちの良いったらない!何とかと畳は新しいほど良いと言うらしいが、こういう気持ちを言うのかしらと思った次第。畳屋さんは近年一般家庭で余り畳の部屋を作らないようになったので商売上がったり、クラシックスタイルのお寺などが主たるお得意さんと言うことになる。市内でも嘗て何件もあった畳屋さんが激減、で結局良い仕事をするお店が残るというわけである。出来上がったばかりの畳に小さな紙片が挟まっていたので不思議に思い聞いてみると、畳表の産地を証明する印だという。な~るほど!産地偽装の食品がやたら騒がれたが、こんな所にも影響しているのだと改めて感じた。
2013年12月26日
日間賀島(ひまかじま)
愛知県知多半島の先っぽから小型船で20数分の所に日間賀島という小さな島がある。人口は千人足らず、端から端まで歩いても20分ほどで行き着く。此処は潮流の関係で水産物の宝庫である。特にフグは有名で、下関で取引される何割かは此処のフグだという。食い気に誘われたわけではないが、友人と絵の先生3人でスケッチ&フグ1泊2日コースで行ってきた。12月で寒さが心配になったが、折良く日差しに恵まれ、場所さえ選べば風もさほどなく、絶好のスケッチ日和となった。早朝午前7時過ぎに電車に乗り2時間後には島に到着、宿に電話して迎えに来て貰い、とりあえず荷物を下ろし喫茶ルームのベランダでコーヒーを飲みながら眼下に広がる大海原を眺めた。昼前に到着したのだが迷惑顔などさらさらなく、どうぞどうぞと大歓迎。一息ついたところで、このベランダから対岸の篠島を1枚スケッチ。日差しをまともに浴びながらだったので、鼻の頭が真っ赤っかになった。宿で昼飯を食べ一服後、徒歩で東港まで行き、桟橋付近で1枚描いた。このときはまともに風が吹き抜け、イーゼルが吹っ飛ばされそう、そばの重りに縛り付けた。さすが風は寒く、途中から腰巻きをしながらであった。ここで1枚描き終わり再び徒歩で宿に戻った。午後4時半頃夕日が美しいと聞いたので部屋から黄金に輝く落日を描いた。絵を描くというのは相当エネルギーを使うもので、もうへとへと、ひとっ風呂浴びて疲れを取った。さて午後6時、今回の目的の一つフグ、いや~これが旨いのなんのって、しかし我々はただ食ってりゃ良いってもんじゃないのだ。先生からプレゼントされた小型のスケッチブックに出てきた料理はすべて描く。食いならが描くのだから大忙し、料理の品名、即座に色も塗る。先生はお運びの仲居さんまでマンガを描くようにすらすらと描いて行く。さすがプロ!翌日は西港へ行き漁船を描く。船は流線形になっているので予想以上に難しい。と言うようなわけで午後3時過ぎ無事に帰った。漁師さんは気っぷが良く、ざっくばらんなのが新鮮に感じた。
2013年12月25日
イノシシ近況
暴れ回っていた猪の公もこの所ひっそりとしていると思ったら、そうでもないらしい。先日尼僧堂辺はどうかと尋ねると、本堂濡れ縁での解定後の夜坐中、目の前を2頭の猪が通り過ぎて行きましたと言うではないか。危ないことなかったかね?と聞くと、別にどうっと言うことはありませんと言った。それなら良いが、一端暴れ出したら手がつけられないので、刺激するようなことは極力控えて、静かにやり過ごすように言った。岐阜市内ではこの所、ニホンカモシカが出没したり、猿が出てきたりと、市街地と山の境界がなくなってきた。うちでも以前、猪が防御用の電線をものともせず突破してきた猛者がいた。隠寮の庭を荒らし回り、別の電線を蹴散らして再び山に帰っていった。この電線は猪対策専用のもので、ちょっとでも触れればビリビリと感電するという優れもの
、それをものともしないのだから堪ったものではない。そこでその外側に竹で柵を作ってみたが、これもどれだけ効果があるのか自信が持てない。いずれにしても雲水が被害に遭ってはいけないので、考えられることはすべてやるという事で目下頭を痛めているという次第。
2013年12月14日
いよいよ臘八
明日からいよいよ臘八(ろうはつ)である。一般的には12月1日から8日間だが、どういう訳かうちでは昔から15日からである。この方が寒くて良い接心が出来るからなのかもしれない。今年は丁度それに合わせるかのように、寒気一段と厳しく、昨日はちょっと雪も舞い、肌を切るような寒さである。修行にはこの厳寒が一番良い。午前3時から真夜中12時まで殆ど座りっきり、勿論途中食事(計4回)やトイレ、ちょっと焚き火などもある。夜中12時になると3時間ほど座睡ができる。禅堂内に大きな火鉢が運び込まれ、少し暖を取ることも出来る。こういうシステムが誠によく出来ている。古人の知恵の結晶である。私は昭和38年から今日までずっとこれを繰り返しやって来た。何年やっても慣れると言うことはないが、しかし修行の醍醐味は味わえる。「尺取り虫の屈するは伸びんがためなり」と言われるが、臘八でぎゅっ~と縮まるから、後で伸びる心地よさが味わえるのである。人生全くこの通り!
2013年12月09日
お茶事
私は本来茶事などには無縁の男で、無粋極まりないのだが、信者さんでお茶に造詣が深く、また先祖伝来物の名器もお持ちの旧家の御当主を存じ上げている。その方のお誘いで滋賀県近江へ、ある高名な方の主催する茶事に行ってきた。一組六名、これを一日何組か迎えて行われた。我々一行は12時少し前に着いて昼食を頂き、寄り付きでお菓子、次ぎに席入りしてお濃茶を頂いた。主催者手作りの独特の茶碗である。その後部屋が変わってお薄、お手前は主催者の陶工が自ら点てられた。全体が大きな美術館になっていて、その作りがまた独特である。広々とした池が巡らされ、すっきりした佇まいは眺めているだけでも気持ちがすっとする。全く贅沢の極みを味わってきた。朝10時に出立して夕方午後5時過ぎに帰ってきたのだが、なかなか充実した一日であった。
2013年12月08日
色紙書き
10年ほど前、人から勧められて干支の色紙を書き始めた。最初の頃は百枚くらいだったのが、知らぬ間に年々増えて、今年はついに七百枚になってしまった。さすがに困り果てた。書くのも労働だが、使う墨をするのも重労働、更にそれらを梱包して送るのも一仕事である。一昨年までは毎晩礼状を添え色紙にベニヤ板をあてがい封筒に詰めてセロテープで閉じる。この一連の作業を連日連夜やっているうちに腱鞘炎になってしまった。そこで昨年からは予想される相手にまとめて一斉に送ることにした。封筒に入れるまではすべて雲水にやって貰い、私は住所書きだけにした。これでぐっと楽になった。ふっと雲水時代のことを思い出した。隠侍は墨すりが仕事で、必死にすった。ところが硯の手入れを知らないから、ガラスの表面のようになった硯に力任せに墨をする。いくらやっても全然濃くならない。当たり前のことで、合わせ砥で目を立てていないからである。そんなこと誰も教えてくれず、墨すりとは何と重労働なものかと思っていた。無知ほど恐ろしいものはない。時間までに間に合わせなければ叱られること必定だから、奥の手の秘密兵器を使い、当時チューブ入りの合成墨があり、それを適当に混ぜて持って行った。ところが十分混ぜ合わせてなかったため、老師が筆を入れいざ書こうと穂先を上げると墨の塊がぼとぼと落っこちた。「お前な~、こう濃くすっちゃ~いかんぞ」。思わず肝が冷えた。私はすべて自分で墨はする。墨の濃さが重要だから、何も知らない雲水などにすらせるわけには行かない。まっ、師匠ほど墨跡を頼まれることもないのでそれで十分なのである。
2013年12月07日
チャリティーコンサート
知人で健康サプリメントを製造販売している人が居る。余り日本では知名度はないが、ヨーロッパでは広く愛用されているらしい。彼の立派なところは企業経営と同時にいろいろな社会貢献をしていることである。今日のコンサートも「小児癌」へ寄付をするために催された。会社に隣接したホールや団欒の部屋等の独立した建物があり、中の設えも実にグレードが高い。壁に掛けられている絵もピカソや高名な日本画家の絵など、安っぽい物など一つもないのだ。儲けたお金をどう使おうが個人の勝手だが、彼の場合はある価値観を厳として持っているような気がする。趣味も多種にわたり、車もその一つ。しかもただ高級車を手に入れて喜ぶというのではなく、彼独特の考え方があるのだ。そこが魅力である。私などは生来ケチだから、「安物買いの銭失い」ばっかりで、その度に後悔しているのだが、もう少し彼を見習わなければならないと感じている。尤も使うと言っても私の場合は桁が二つ三つ違うので同じに比較できないが、精神は学びたいと思う。冒頭のチャリティーコンサートを始め、エイズ撲滅運動に協力したり、新進気鋭の音楽家を支援したりと、多岐にわたっている。この懐の広さも魅力である。こういう人とじかに接すると良い刺激を受け自分の励みにも成る。
2013年12月06日
唯識
私のような無学の者にも不思議な縁で、友人に唯識の学者さんが居る。先生が上梓した唯識辞典なども頂いたのだが、ちんぷんかんぷんで、猫に小判。以前NHK教育テレビに出演され、1年間唯識についての講義があった。最初は義理で見させて貰ったが、話を聞いているうちにノイローゼになりそうだったのでついに断念した。いつだったかひょっこりお寺にやって来て、久しぶりにお喋りをしたことがあった。最近は殆どお目にかかることもなくなったが、12月に干支の色紙をお送りしている。その礼状と共に目下先生が関係している「立教セカンドステージ大学」のニュースレターに寄稿された巻頭語を送って下さった。一部引用させて頂く。[・・・地獄とは自他対立の世界を言い、自他一如の世界が極楽です。世間の荒波の中で浮きつ沈みつしながら生きてきた方々はいわば地獄で生きてきたことになる。人生の道に一息ついたら、心を静寂にして、自分しか背負うことの出来ない自らの心の中を観察する時間を持って下さい。無条件・無理由に心の底から湧き出てくる声に、命令に耳を傾けて下さい。それは新たに自覚することです。自覚とは自分に目覚めることです。その目覚めによって、自我執着心の薄まった生き方、あの宮沢賢治の、雨ニモマケズのなかの、「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニイ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソウシテワスレズ」他者のために東西南北に奔走する生き方が可能になります。これからの人生を尽きることない情熱を持って、自由に爽快に生きて生きて生ききって下さい。」
とこのような文章を拝読しながら、古希を過ぎてもなお、地獄の真っ只中で七転八倒している自分はいったい何なんだと、考え込んでしまった。
2013年12月05日
整形外科
老齢化に伴い足腰が痛んでくる。最初は近所の整形外科にせっせと通っていたが、どうもその程度では治まらなくなり、人の紹介で近所の中国鍼へ通い始めた。そこの鍼は大変よく効き効果抜群なのだが、場所によってはイマイチという箇所も出てきた。ともかく足・膝・腰・股関節・首・肩等々、満身創痍状態である。誰でも一緒!と言われるとまっ、そんなものかとちょっと気が休まるが、しかし憂鬱になる。最近信者さんから良い整形外科医を紹介され此処も一年近く既に通っている。治療方は痛いというポイントに注射をする。これがまた効果抜群、あっという間に痛みが引く。一時は坐禅が組めなくなり困り果てたが、このお医者さんのお陰で今では普通に組めるようになった。坐禅を組むのは我々にとっていわば商売道具だから、座れなくなったらお仕舞いである。私の寺は比較的街中で便利なところにあるので、お医者さん通いには誠に好都合である。それにしてもこうあっちこっちガタがきたのでは、人間やってられないな~と思ってしまう。老いてきたら今までより少しは楽させて貰いたいな~と思うのだが、これが反対で、益々用事が増えるばかりである。ある人から、何言ってる!あんたはまだ若い方のうちです!と言われてしまった。駄馬に鞭打つ日々である。
2013年12月04日
川上哲治を送る会
先日東京ドームホテルであの有名な川上哲治を送る会へ行ってきた。嘗て僧堂在錫中、毎年12月の冬至大接心に参加されていた。私が評席をしていた頃、9連覇の真っ最中で、ジャイアンツが最高の時だった。一週間の大接心、7日目の夜10時に無事円成すると、副司寮で3人の評席と川上さんとで打ち上げの一杯をやった。勿論こっそり憚ってのことなので、ご低声に野球の話を伺った。飲むうちにだんだん話に興が乗ってくると、着物に袴姿を忘れて、バッティングを身振り手振りで始められた。その天真爛漫で少年のような姿に、随分世間で言われているのとは違うな~と思ったものである。野球馬鹿というか、本当に野球一筋に生きてこられた人だな~と感じた。望雲亭という建物が宿舎になっていたが、日中はいわゆるスコアブックの巨大なものをうずたかく積んで、一枚一枚丹念に調べ上げていた。いったい何のためなのかと尋ねたら、一年間の各選手の打席を克明に目を通して、長所短所を知るためだそうだ。監督はその場のそ場で采配を振るっていれば済むものかと思ったら、こりゃ~大変な仕事だと感じた。梶浦逸外老師も亡くなり、谷耕月老師も亡くなり、当時のことを知るものも殆ど居なくなってしまった。数年前、やはりジャイアンツで嘗て選手として活躍し、その後バッティングコーチとしても活躍された国松彰氏(彼も冬至大接心に何年間か通われた)と3人で一杯やりましょうと誘われて、一夜旧交を温めたことがある。川上さんは少し足を引きずっておられたが、正眼寺での接心の話で大いに盛り上がった。その後川上さんのご子息さんと親しくさせて頂いているのだが、此もすべて梶浦逸外老師に繋がって行く話で、人の縁の不思議さを感ずる。