« 2016年03月 | メイン | 2016年05月 »
2016年04月26日
栄三・東一記念展
栄三・東一記念美術館で両先生の百年の節目と開館25年を記念して特別展が催された。久しぶりに沢山の方々にお会いでき、楽しい一時を過ごすことが出来た。その折偶然立ち話で、土屋禮一先生の大好きな映画の話を聞いた。丁度、小津安二郎監督の「秋日和」「彼岸花」などの名作がデジタル復刻で放送されている。それを見た直後だったので、先生の話に大変興味が湧いた。小津安二郎監督の映画では、どの一画面にもムダは一切ないそうだ。全て綿密に作られていて、例えば画面の後ろの方を、をたまたま行き来する役者にも、あなたは嘗て裕福だったが今は落ちぶれた人の歩き方・別の人には大変幸せな人の歩き方・不幸のど真ん中に居る人の歩き方・また嘗ては不幸せだったが今は幸せな生活をしている人の歩き方等々、主役の背後を何気なく通り過ぎる役者にも一人一人全て指示したそうである。このようにどの画面も全て計算し尽くされてできているというのである。映画1本がどのくらいのカット数で出来上がっているか知らないが、この綿密さがあって小津安二郎監督の名作は出来上がっていると言う。いずれの世界も、想像を絶する緻密な作業の積み重ねがあって初めて、人を感動させることができるのである。
2016年04月25日
頂相(ちんそう)
私も74歳になったのを機に頂相を画家に描いて貰い自賛しようと考えている。そこで親しくさせて頂いている高名な方に依頼した。そういう方は引く手あまたで、本業が猛烈に忙しいので、合間に暇を見つけて是非・・・と頼んでから早や何年かが過ぎてしまった。丁度関係者と会食する機会があったので、ひな型にと思い、こんな感じでと現物を持参して改めて依頼した。このくらい急かしておかないといつ描いて下さるか解ったものではない。今後、健康に恵まれたとして、平均寿命まで残すところあと6年、そうゆっくり構えているわけにも行かない。今まで沢山の頂相の賛を書いてきたので、後は自分のでお仕舞いにしようと思っている。
2016年04月22日
型にはまる
夏期入制の大接心が15日から1週間あって、昨夜無事に終わった。今朝はほっと一息というところで、久しぶりにゆったりと過ごしている。お天気も良いので溜まった洗濯をして、明日の齋会出頭の準備をして、これから山歩きでもしてこようと思っている。一週間籠もりっきりだったのでだいぶ体が鈍っている。一汗かいてこないと、気持ちがシャキとしない。昨夜の雨で楓の新緑の美しいこと、目に染みるようだ。鶯が早朝からしきりに鳴いて、静まりかえった隠寮の庭に響き渡っている。秋の紅葉も美しいが、私はこの時期の新緑の方が生命力溢れていて好きだ。楓の古木で2本大きなのがあるが、近年衰えて肝心な秋は、紅葉する前にちりちりに枯れ葉になって落ちてしまう。まわりの楓が真っ赤なのでこの2本の枯れ葉が一層目立つ。いっそ切ってしまおうかな~と思ったこともあるが止めることにした。一生懸命目に染みるような若葉を見せて貰うと、切り倒すどころか、感謝感謝である。
2016年04月18日
醍醐寺の桜
知人で50年以上も仕事の関係でブラジルで暮らし、昨年漸く帰国された方が居る。琵琶湖畔の素晴らしいマンションを購入し、老夫婦でのんびり過ごして居られる。4月友人の案内で醍醐の桜を見に出掛けたそうだ。余りの素晴らしさに涙が出たと言って居られた。醍醐寺の歴史の重みと満開の桜に、思わず息を飲んだそうだ。桜は毎年のことで、うちの近くでも素晴らしい桜を見るが、この季節の当たり前の景色で、美しいには違いないがもう慣れっこになっていて、特別な感激はない。永く外国で暮らしていると、日本で見る満開の桜は特別な意味を持つようである。又伏見の酒蔵を訪ね、レストランを合わせて営業しているところで、美味しいお酒と料理を堪能されたそうで、これもまた大感激して居られた。確かにこちらが外国へ出掛けて感じるのは、こういう情緒のあるところはお目に掛かったことがない。ニッポン再発見、改めて日本の良いところを訪ね歩いて、味わいたいと思った。
2016年04月15日
熊本地震
ついこの間大震災に見舞われたというのに、早くも今度は九州である。日本列島地震の巣窟である。夜ニュースで知り、すぐ会下(えか)の者の寺の様子は如何?と電話をしたら、全く繋がらず、案じながら一晩過ごした。早朝のニュースを見ると、地域的には酷いところではなさそうなので一応安堵した。10時過ぎ電話をすると旨く繋がった。話を聞くと全く寺に被害はなかったようだ。最近寺にかけていた保険を解約したところだったそうで、こういうこともあるからもう一辺掛け直そうと思ったそうだ。師匠が大変苦労して、半分は手作りのような伽藍だから、耐震性など余り配慮されていないようなので、それで特に心配になったのである。ともかく建物も無事、家族も無事で、やれやれ一安心であった。
2016年04月14日
知的好奇心
人類がサルから進化して、今日の高等人類になったのは、一重に知的好奇心のたゆまぬ積み重ねの結果である。豊かな熱帯のジャングルを捨てて、あえて厳しい環境のサバンナに進出したのは、あっちに何かがあるかも知れない。サバンナは自然は貧しく広大だけれども、そこから得られる利益は殆ど無い。でもあっちに何があるのか知りたい。そこで初めてヒトへの進化が生まれた。ジャングルにとどまっていたサルはサルのままなのでる。人間がこれまで生み出してきたすべての文明は経済的な合理性を持つ知的所産のように見えるが、実はそれは表面的なもので、もっと深いところで突き動かしている原初的な知的欲求、もっと知りたいという根源的欲求なのである。日々の生活を怠惰に流され、「日暮れりゃあ腹減る」なら、ヒトとしてこの世に生まれて来た甲斐はない。そこに留まれば断見外道なり。
2016年04月13日
読書
知人で大変な読書家が居て、ちょくちょく、「これはなかなかいいですよ!」と言って貸してくれる。お陰でこちらは黙ってじっとしているだけで、次々に興味の湧く本を読むことが出来る。チベット仏教の葬儀の実際を克明に書いた本などは、目を丸くして読んだ。普段余り人に接触しない生活だから、離れ小島の住人になってしまうので、いろいろなタイプの方々とお付き合いさせて頂けるのは、本当に有難い。音楽に大変造詣が深い方からは、素晴らしいコンサートのお誘いを頂くし、お能に長年修練されて居られる方も居り、様々な分野の事柄に触れることが出来る。じっと雲水の相手をしているだけでは世界が小さくなる。精々野次馬根性をたくましくして、広い世界を見ていきたい。
2016年04月10日
供養のお経
今日は兄弟で早や主人をなくした者が居り、又赤ん坊のまま死んでしまった者も居りで、その年忌法要を頼まれた。午前中無事にお勤めをすることが出来た。皆晴れ晴れとした顔に成って、それぞれ我が家に帰っていった。どなたの法要でもそうだが、心から供養する気持ちがひしひしと伝わり、お坊さんとしての役目を果たしたという実感が湧く。ところで遠方からでもあり前日から来岐し、宿に泊まった。そこで兄弟ばかりなので、親しくさせて頂いている食事処にお願いし、前夜齋を催した。そこのご主人も奥さんも大変親切にもてなして下さった。みな大いに盛り上がって旧交を温めた。亡くしてそれぞれだいぶ年月を経ているので、悲しむと言うより、皆こうして元気でやってますよ、ご安心下さい、と言う報告の宴となった。身内のこういう法要もなかなか良いものだと改めて感じた。
2016年04月08日
挫折物語
老いたら何か楽しみを持ちたいと思い、絵と英会話を始めた。結論から言えば、どちらも挫折。絵の方は、一時ほど熱が入らず、英会話は先生が南アフリカに帰ってお仕舞い。私は小さい頃から母に、お前は何か始めるとすぐに止めてしまう、わる~い性格だ!と言われたが、74歳になってもドンピシャリ当たっている。全てお見通しなのである。熱しやすく冷めやすい。だから私がお坊さんになると言ったとき、母はここが一番心配だったようだ。しかし、他のことは母の言う通りだったが、不思議にお坊さんだけは止めずに今なお続けている。計るだけダイエットだって、いつまで続くか自信はない。皆の期待に応えてなんぞと、とても信用出来る話ではない。そこを見抜いたのか友人は、この本を読まないと続きませんからと、NHKためしてガッテン流、「死なないぞ、ダイエット」を貸してくれた。さすが友じゃわい!唯一続いているのは裏山歩きだけ、これは気持ちが良いからだろう。絵の先生は毎日絵日記を描きなさいとアドバイスしてくれたが、先生の上手なのを見たら、一枚も描かないうちに挫折した。
2016年04月06日
計るだけダイエット
最近、老齢化による代謝機能低下なのか、ほぼ同じ食事・同じ運動量にもかかわらず、じりっじりっと体重が増えてきた。半年前より昼食抜きで頑張っているのだが、それでも増えてきた。一体どうすりゃ~良いんだ!天に向かって叫びたいくらいだ。友人がNHKためしてガッテンのディレクターの講演を聴いたところ、ダイエットは「計るだけダイエット」が一番良いという。そう言う話を聞くと直ぐ飛びつくダボハゼ精神の私は、早速パソコンより計るだけダイエット日記をプリント、今夜から朝夕計ってグラフに記録することにした。そう言えば以前にもこれをやったような気がするが、再挑戦でやってみる。いずれその結果は正直にご報告します。皆の良いお手本になるよう頑張ります。
2016年04月03日
桜と春祭り
市内を走っていると、ちょっとした公園でも桜が満開。矢張り桜は1,2本では駄目で、少なくとも十数本以上が群がって咲かないと桜の雰囲気は出ない。昨日今日と岐阜祭りでメインストリートは大賑わい、昨日の夜は伊奈波神社の境内に山車が幾つも揃い、御神輿も一緒になって、それは賑やかなことだった。知人は今年、山車の当番だそうで、大忙しである。戦前を知る人には少々寂しい感じだそうだが、(戦災にあい幾つもの山車が焼失した)、それでも残った山車を大切に保存して、お祭りには大いに賑わいを添えている。当番の町内に住む人は重労働だと聞くが、それでも未だにこういう伝統が引き継がれているのは尊いことである。
2016年04月01日
法話
本堂で様々な会が催され、その都度何か話をさせられる。本堂は自分のホームグランドなので、別にあがってしどろもどろ、と言うことはさすがにないが、終わって自室に戻り、我ながら大いに反省することしばしばである。根本的に話し下手、と言うこともあるが、私の心の底に、こんな話しで一体禅の何が伝わるかい!と言う思いがある。さりとて立場上求められれば何事か話をしないわけにも行かず、ずっとこの板挟みで苦しんでいる。出来ることならどなたか別の人に頼んで欲しい!と思っている。特にこの4月は会社の新入社員の坐禅会・寺庭婦人会、その他毎月催される本山主催の禅学林等々、私のような話が最も苦手な者に集中砲火で、へとへとになる。これも役目のうちと観念して、また明日もひと席はなしをぶつ。