2016年07月12日
参禅
僧堂は毎日朝晩、参禅がある。これを三十数年間やって来ているが、雲水一人一人の心の内が実に良く見える。師家と雲水の接点は、日常的には殆ど無い。朝の勤行か講座くらいなもので、隠侍は別だが、後の者は顔を見ることさえない。しかし参禅で公案を介してやり取りをすると、相手の全てが丸見えになる。雲水の方は多分そんなことは夢にも思わないだろうが、こちらからはよく見える。何を考えて、どのように修行しているかが見えるのである。それは公案があるからだ。見解(けんげ)を呈するということは、自分の腹の中の真っ正直なところを吐露することになる。一般社会と違って私と雲水の絆はただ修行という一点だけで、世俗のことは一切無い。その絹の糸のような細い繋がりから、その雲水の全てが見えてくる。我が手の平の筋を見るが如しである。雲水は毎日このように丸裸にされているのである。この恐ろしさを知る者は居ない。これが解る雲水なら、もう一人前である。
投稿者 zuiryo : 2016年07月12日 09:36