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2016年08月25日
地蔵盆
8月24日は地蔵盆の日で、午後4時から境内のお地蔵様の前でお経をあげる。予め一週間前頃から総門前に大きな看板を立てているので、時間になると三々五々子供とお婆ちゃん達が集まる。読経中に子供達にお焼香して貰い、終わるとお菓子を袋詰めにしたのを差し上げる。ざっとこう言う段取りなのだが、近年は子供の数が減って、菓子袋が大量に余ってしまう。そこで今年はぐっと減らした。ところが何と、今年に限って続々子供がやって来た。さりとて急にお菓子の袋詰めを支度するわけにも行かず、お寺にある菓子類を総動員して袋に入れて何とか凌いだ。お詣りは予約して来るわけではなし、さて来年からはどうするじゃ~??
2016年08月23日
ぶとの襲来
このところ連日裏山歩きを続けているのだが、一つ困ったことがある。それは山の中に入ると途端に猛烈なぶとの襲撃に遭う。それも目の前を何匹もウヨウヨと飛び回り、腕や脛に食いつく。特に目の前を何匹も飛び回るのには閉口する。始めの頃は歩きながら両手でパチッと叩きつぶしてやっていたが、それがどういうわけか、巧みにかいくぐって、執拗に目の前を飛び続ける。スピードを上げて振り切ってやろうとすると、向こうさんも心得たもので、ちゃんとこっちのペースに合わせてくるのだ。何とも始末の悪い虫である。ところが今日は全く一匹もやってこない。考えるに、いつもより一時間速く歩き出したからではないか。どうもぶとにも出勤時間があるようで、帰り道午後4時を過ぎたら途端にウヨウヨ出てきた。ぶとも午睡をするのだろうか?
2016年08月18日
山頭火
ずっと以前、弟子が制間に行脚に出た。僧堂を出発して、紀伊半島を一巡、山陽道から九州へ、大分・宮崎・鹿児島・熊本・佐賀・福岡・山口へと辿り着いた。泊まりは行き当たりばったりで、神社の軒下で寝たり、安宿に泊まったりとして約半年歩き続けた。山口の鄙びた温泉に辿り着いた。数件の宿を手前から順番に宿泊を頼むと、次々断られた。何せよれよれの法衣に草鞋ばき、どう見ても乞食坊主である。ついにここが最後の宿という一番奥で一晩の宿を頼むと、何と大歓迎だったという。余りのことで聞くと、昔宿の主人がまだ小さかった頃、父親が種田山頭火を1ケ月以上泊めて接待したそうだ。その記憶がその雲水のよれよれ姿とオーバーラップして、大歓迎してくれたというわけである。「どうぞ何日でも好きなだけ泊まっていって下さい」と言われたそうだ。僧堂に戻ってから、「ところで宿の主人の言っていた種田山頭火というのはどういう人なんですか?」「な~んだお前はぜんぜん知らんのか~!」。現代俳句の俳人で、「分け入っても分け入っても青い山」はつとに有名。ところで先日、渥美清の寅さん映画の特集が有り、渥美清は現代俳句の熟達の人だったらしい。金子兜太が絶賛していた。何句か披露されたが、これはなかなかのもの、ビックリポン!
2016年08月17日
音が存在すると言うこと
西洋の音楽は趨勢として純音、ピュアな音を求めていく。シンセサイザーなどもそれを組み立てていくことである。しかし私(武満徹)の方向はそうではなく、一つの音には計り知れないほどの夾雑物がある。そうでなければ、その音を具体的な音として支えることが出来ない。したがってその音は存在できない。音というものを存在させているのはただ一つのものではなくて、二つあるいはもっと多くの違うものが同時に存在することで、その存在を支えているのである。角度をかえて言うと、音楽全体の構造と一つの音の関係というものは、一つの音の中に全体の構造が既に見えていないと駄目だ。もうこれ以上余分が捨てられないというところにあるところのひとつの多様性として捕らえる。そのことが非常に重要で、それが音の根源でもあるからだ。少々理屈っぽくて、解りにくい感じだが、禅で言う一即多、多即一ということでしょう。このところずっと武満徹音楽創造への旅を読んでいるのだが、実に禅と合致しているのに驚かされる。
高野槙
もう十数年前、四国八十八番札所巡りを歩いてやったことがある。一辺には無理なので、数年かけ小分けし、大体一年に三回、4泊5日を繰り返し、凡そ七年で全て歩き通した。八十八番札所を終え、一番札所に戻ってお礼参り、高松港からフェリーで和歌山へ、高野山の一乗院へ泊まった。翌朝高野山奥の院へ詣り、これで全て完了した。脇の小屋掛けの売店でお婆さんが高野槙の苗木を売っていたので一本買った。寺に戻り自室の前の庭の片隅に植え、朝晩水遣りを続けた。わずか三十センチほどの苗がすくすく伸びて一メートルを超えた。植木屋さんが言うにはこの木はドンドン大きくなりますから今のうちに広い場所に移植した方が良い。そこで将来大木に成ることを想定して、鐘楼脇に植え、数年経って三メートルほどになった。これですっかり根付いたので、脇に記念の石碑を建てた。平成五年六月に植えたのだから、十三年経ったのである。裏側に私と同行の二人の名前を彫って記念とした。それを写真に撮って、こんな具合ですよと知らせると、予想外に喜んでくれた。二人とも私よりずっと年上だから、当時を振り返って感慨一入という所なのだろうと察した。偶然思い立ってしたことなのだが、こんなに喜んで貰えて、こちらまで嬉しくなった。
2016年08月16日
師匠のお寺へ
京都で小僧をしていたときの師匠の生まれたところは、信州の曹洞宗のお寺である。現在は九十六歳になる実兄の息子さんが後をやっている。彼も一時私が修行していた道場に居たことがある。私にとっては初めての墓参りで、狭い道をくねくね曲がり、漸く到着した。裏は山に囲まれ、猪除けの電柵が張り巡らされていた。早速本堂でお経をあげ、裏の墓所で師匠の分骨されたお墓にも参った。丁度電動車椅子に乗って、先住さんが田圃から帰ってきた。花火が沢山あったので尋ねると、雀にお米が食べられてしまうので、パンパン花火を上げて追っ払ってきたという。足こそ弱られているが、しっかりした話しぶりで、長寿の家系の見本のような方である。新命和尚の奥さんはドイツ人で、この寺から車で三十分ほどの山奥に、禅堂を建てて主に外国人に禅の指導をしている。建物は全て古民家に手を入れて禅堂風に作り直し、これまでするには、相当ご苦労されただろうと感じた。多くの支援者にも恵まれ、間もなく本格的な建物も新築されるようである。その日もフランスから二人ほど女性が泊まり込みでやって来ていた。信州の山奥の片隅だが、こんな大きな構想で、これから禅を広めて行こうと考えている人が居ることに驚かされた。
2016年08月13日
朋を訪ね
信州安曇野に、人生の晩年に移住された知人が居る。全くその地域には縁もゆかりも無いところで、よくぞ決断されたものである。仕事も従来とは全く違うものだが、今溌剌として生活しておられる。近くのあずみの公園という国営の大きな公園があり、その中の「あずみの学校」という体験教室で、理科・芸術・社会等の各教室が有り、その中の社会科教室を担当している。そこでは昭和三十年代の庄屋さんの家を再現した中で四季様々な行事をイベントとして行っている。ちょうど小さな子供が何人か集まったので、早速紙芝居をやってくれた。今までの建築関係の仕事とは全く異質の所へ飛び込み、童心に帰り、子供に成り切って溌剌として働いている姿に感銘を受けた。三千メートル級の山々が周囲に連なり、裾野に広がる広大な農地に、澄み切った空気、どれをとっても魅力的なところで、自分もこういう所で住みたいな~と思った。実際にはそこでの生活は良いことばかりでもないだろうが、彼の澄んだ瞳を見ていたら、本当に、人生晩年の良い選択をされたものだと感じた。「朋遠方より来たるまた楽しからずや」そう思って下されば、行った甲斐があったというものである。
2016年08月07日
狗奴国王墳墓
弥生時代、倭の女王卑弥呼に対抗する一大勢力があった。その地域は何処なのかは諸説有り、その一つに濃尾平野から伊勢湾岸地域ではないかと言う説がある。確かにそれを証明するような遺蹟や墳墓が濃尾一帯に沢山出土している。しかし何せ遠い昔の話で、学者によって諸説入り乱れているらしい。そう言う遺蹟の中の一つに、うちの寺の裏山頂上に狗奴国王の墳墓と言われている場所がある。当時のやり方として埋葬するとき銅鏡をたたき割ったようで、以前、どなたかがその割れた銅鏡を見つけ、現在その銅鏡は栃木県にあるらしい。その他何点か出土品があったと言う。現在は岩山の一角に埋葬したような形状の場所があるだけで、それも言われなければ殆ど解らない。愛知県のある学者さんが狗奴国王の墳墓と言い、市役所もそれを取り上げ、「瑞龍寺山頂遺蹟」としてあっちこっちに看板を立てている。毎日この山の近くを歩いているのだが、墳墓地は非常に登りにくく、険しいところなので、いつもは避けてその下側の歩きやすいところを行っている。ところが昨日に限って道をどう間違えたのか、はっと気がついたら山頂墳墓に向かって登っているではないか。急坂でしんどいったら無い。大汗かいて必死に登った。漸くその場所に辿り着くとえらい立派な看板が立てられ、説明が書いてある。以前この墳墓について現場で直接学者さんから説明する会が催されたことがあるが、改めて見ても、我々一般の者にはそんなたいそうな墳墓にはとても思えない。ここまでは毎日の山歩きに来るのはとても無理。大汗かいたところに一陣の風が吹き抜け、気分は爽快であった。
2016年08月02日
集中豪雨
例によって裏山登りに定刻出掛けた。カンカン照りだったが、この間のこともあるので一応傘を杖代わりにして登り始めた。ほぼ頂上辺りまで来ると一転にわかにかき曇り、ポツリポツリと降り出した。しかし今日は傘持参だから余裕。さらに歩いて下りにかかる頃、酷いなんてもんじゃない、まるで滝のよう。山路は全て猛烈な濁流、足を踏みしめるところも無い有様。些か恐怖を感じた。雨もこうなると傘など殆ど用を為さず、頭の辺りが濡れずにすんだ程度で、全身ずぶ濡れ状態。お寺の総門まで何とか辿り着くと、側溝から水があふれ出て、参道が一面、まるで川のよう。命からがら部屋に戻り、何とか事なきを得た。ニュースではJRや新幹線が止まったり、釣り客が中州に取り残されヘリコプターで救助されたりと、大変なことになっていた。今日ほど酷いことは無いがこの所ほぼ毎日、午後4時過ぎ頃から突如猛烈な雨というのが続いている。庭に散水する手間は省けて良いのだが、これはちょっとお天道様もやり過ぎだよ。
制間
1日、午前3時から祝聖行事、3ケ月間の楞厳呪行道も本日を以て終了。如常の朝課だけでも大汗かき、引き続きの行道、しかも相当な早足なので、さらに汗が噴き出てくる。年々これでぐったりくる。しかしそれも今日で終わりとなりほっとする。制間と言っても、3日おきの講座が無くなるくらいで、後はたいして変化は無いのだが、まっ、気分の問題である。それにしても今年の暑さは何たることだ!岐阜では連日35℃、うちのノラクロもぐったり、一番涼しい茶室の濡れ縁で大の字になって寝ている。真っ黒の毛皮のコート着用なのだから、剥いでやりたいくらいだ。そんな中、連日午後3時半から裏山歩きを続けている。山の中は涼風が吹き抜け心地よい。勿論汗も噴き出てくるが、寺に戻って直ぐシャワーを浴び、冷蔵庫から冷た~い水をゴクッと飲むと旨いのなんのって、甘露!甘露!計るだけダイエットも順調に推移し、当初は72キロ台だったのが、今では69キロ台、約3キログラム減で、着実に成果が出ている。お医者さんは後3キロ減らしなさいと言うが、そう言ってるお医者さんは、どう見ても相当な体重オーバー、先生こそ減量を・・・と言いたいくらい。この必死な努力、解ってくれてるのかな~。