2016年08月17日
音が存在すると言うこと
西洋の音楽は趨勢として純音、ピュアな音を求めていく。シンセサイザーなどもそれを組み立てていくことである。しかし私(武満徹)の方向はそうではなく、一つの音には計り知れないほどの夾雑物がある。そうでなければ、その音を具体的な音として支えることが出来ない。したがってその音は存在できない。音というものを存在させているのはただ一つのものではなくて、二つあるいはもっと多くの違うものが同時に存在することで、その存在を支えているのである。角度をかえて言うと、音楽全体の構造と一つの音の関係というものは、一つの音の中に全体の構造が既に見えていないと駄目だ。もうこれ以上余分が捨てられないというところにあるところのひとつの多様性として捕らえる。そのことが非常に重要で、それが音の根源でもあるからだ。少々理屈っぽくて、解りにくい感じだが、禅で言う一即多、多即一ということでしょう。このところずっと武満徹音楽創造への旅を読んでいるのだが、実に禅と合致しているのに驚かされる。
投稿者 zuiryo : 2016年08月17日 21:32