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2016年09月08日

書道

現代は殆どパソコンでやり取りする。すでにそれも時代遅れで、スマフォ全盛である。外国の友人と電話でちょくちょく話すのもLINEで、しかも通話料はタダ。こうなると新聞もテレビも不要となる。小さい頃、親に百科辞典を買って貰い、毎日のようにぺらぺらめくって楽しんでいたが、今は全てスマフォが教えてくれる。こうなると凡そ習字などと言うのは前時代的で、全く無用となるように思うが、我々お寺の世界では、未だ健在である。礼を尽くしたやり取りでは必ず筆で和紙に書いたもので無ければ通用しない。そう思っているときにある寺から法要の案内状が届いた。文面は型どおりで問題無いのだが、文字のへたっぴ~といったらない、ナメクジがのたくってるようなもの。こうなるとわざわざ筆で書いても殆ど価値はない。それ相応の字で書かれたものでなければ。それじゃ~お前はどうなんだ!と言われると、ちょっと言葉が詰まるが、まっ、目下努力中であることに間違い無い。「恥を知る」である。またそう言うナメクジ流の案内状を平気で出させている監督者も駄目だ。私が在錫中は右筆の老人が居て、一手に引き受けて書いてくれた。これも今から思うと善し悪しで、書体がやや流暢に流れ、キッチリした楷書で無かった。禅宗ではカチッとした文字で無ければ駄目だ。想い出すと昔、師匠は超へたっぴ~だった。それでどうしたかというと、まるで小学生が初めて字を書くように、律儀にコチコチ文字、しかし律儀に一生懸命書いている雰囲気がじわ~っと伝わって来て、私は師匠のこの字が大好きだった。要は心構えと言うことである。

投稿者 zuiryo : 2016年09月08日 14:47

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