2016年12月30日
美女
一口に美女と言っても、その基準はまちまちで、その良い例が吉永小百合である。我が国を代表する美女なのだが、ところがである。むかしNHKが松本清張の「暗い血の旋律」という作品を番組にした。明治時代オーストリア貴族に嫁いだ青山光子の生涯を辿った物語。その美貌はウイーンの社交界で賞賛され、「ミツコ」と言う香水まで売り出されたほどだ。この光子役を演じたのが吉永小百合。私は首をかしげた。果たして中部ヨーロッパの男がこの顔に引かれるだろうか?光子が嫁いだクーデンフォーフ家の領地は今のチエコ共和国である。嫌でも目につく吉永小百合の写真を見る度に不思議に思った。どうしても美女に見えない。周囲の人に言うと、エッ!おかしんじゃない!彼女こそ折り紙付きの美女なのに。訝しげに睨み付ける人も居れば、「まっ、確かにいわゆる美人ではないが、可愛いタイプというのかな」と言われてしまった。厳密な意味で美形かそうでないかは微妙な好みに左右されることは解っているが、戸惑ったというのはそんな次元では無く、「なんて醜い顔なんだろう」と感じていたのである。前歯が2本異常に大きく、鼠そっくりでは無いか。ところが面白いことに、帰国後五年ほど経つと、吉永小百合のことを、「なんてきれいな人なのだろう」と心の底から思ってため息をもらしたりするようになった。そんなわけで、私は自分の顔については絶望しない。いつの時代か、何処かの民族では、絶世の美女で通るかも知れないもの。五年ほどチェコで暮らしたこの文章を書いた人は言っている。個人的には全く同感で、私もしばしばロンドンへ出掛けるが、イギリス女性は何でこうもブスばっかりなんだ!と嘆息することがある。友人の彼は5年間日本に滞在し、その間に日本女性を好きに成り結婚して帰国した。帰国してから40年近くなるのだが、その後、彼の美女観の変化について聞いた事は無いが、今でも仲良く暮らしているところを見ると、結婚は何も顔とだけするわけではなく、日常様々な事柄の全てを通して成り立っているという事なのだろう。
投稿者 zuiryo : 2016年12月30日 10:40