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2017年01月31日
吹き出物
私は二十の頃から頭に吹き出物が出来るようになった。原因は解らないが、皮膚科の先生の診断は毛嚢炎で、軟膏を処方され、これを塗っておきなさいで終わり。素人目に見ても、この程度で治るとは到底思えない。案の定、爾来20年以上、苦しむことになった。特に3,4日に一度は剃髪をしなければならないので、いつも頭は傷だらけ、人も避けて通るほどで、仲間は遠慮が無いので、「お岩さん」と言っていた。そこで特に許可を得て、私だけはバリカンで済ませていた。剃髪日になると皆の青々とした剃りたての頭が羨ましく、自分は生涯駄目なのかと、絶望していた。ところが40歳を過ぎる頃から何もしなのに、自然に吹き出物は無くなり、爾来今日まで剃髪し、夢にまで見た青々とした剃りたてホヤホヤの頭を撫でながら、一人喜んでいる。体の中に毒素があって、それが毛根から吹き出ていたのだ。年齢を重ねているうちに、体から毒が出尽くし、自然に治癒したのではないか。それは肉体的なことのみならず、心の毒素も共に出て行ったのだろうと思っている。
2017年01月24日
休息の取り方
仕事で無い旅行をしたのが十年前、友人に誘われてのことだった。出発直前まで仕事をして、空港に直行し飛び乗った。座席ベルトを締め飛行機が離陸した瞬間、頑固な肩こりと偏頭痛が一瞬にして雲散霧消した。感激のあまり興奮する私に隣席の友人が言う。私も昨年胃の痛みが離陸の瞬間消えた。これで私の仕事観、休暇観は一変した。仕事には様々な拘束が伴う。そのストレスは確実に肉体を蝕んでいる。精神も肉体も休息を必要としているのである。趣味は仕事という鑑(かがみ)みたいなひとがいる。大手不動産デベロッパーに勤めている。休暇は?と言うと、そんなの取っていたら競争に負けてしまう。でも息抜きは必要でしょう。此処だけの話だけど、外回りの時、開発用地を見まわりながら、草むらに寝転んでボ~ッと空を眺めるんだ。最高に気持ちいいよ.さすが腕っこきの営業マン、息抜きの秘訣をよくご存知だ。
2017年01月22日
望郷指数
幼稚園で異常なくらいやたら自分の家庭のことを自慢する子供がいる。帰宅時間になると飛ぶように帰って行く。どんな居心地の良い幸せな家庭なんだろうと想像してしまう。ところが百発百中,そう言う子に限って悲惨な家庭である。両親が離婚寸前とか子供の父親が始終暴力を振るうとか、母親がアル中とか・・・。子供らしく天真爛漫に遊びほうけていられない。幼いなりに家のことが気になって仕方がない。大きな国より小さな国、強い国より弱い国から来た子供の方が母国を思う情熱が激しい。中国人より朝鮮人の方が,自国に対する侮辱に敏感なのだ。国が小さい分、その国に占める自分の割合が大きく、自分の存在によってその国の運命が左右される度合いも高そうな気がする。思い入れが強くなるのだろう。こんなことを言うと、バカ!世間知らずの坊さんが何を言っとるか!と非難されそうだが、近頃問題になっている韓国の「少女像」なども、実はこの辺から出てきているのではないかと思う。
2017年01月18日
空気
必要不可欠なのに普段はその存在を完全に忘れているものの代表格は空気である。水もそれに近い。しかしその存在価値を忘れがちなのは、雨が多く国土の80%を山林が覆い、水田稲作を発達させてきたこの大地は、保水能力が極めて高く世界でも希に見るほど豊かで清らかな水に恵まれているからである。お金などを在るに任せて無駄遣いするのを「湯水のように」と表現するが、砂漠の民ベドウィン族にこの慣用句を文字通りに訳して聞かせたら、「大切に惜しみ惜しみ」の意味に受け取る。湯水のようにの意味を「砂のように」と彼らは言うらしい。さて空気は極端なほど自己主張しない。地球を包むこの気体が無ければ地表は灼熱の太陽が容赦なく降り注ぎ凄まじい光と熱に直接さらされる。雨も雪も風も存在しなくなる。それより何より呼吸が出来なくなるのだから人間どころかあらゆる生物は存在できなくなる。しかしその価値を実感できるのは水と同様不足や不在によってである。高い山に登ったり海で溺れかけたりしたときだけである。その存在を感じさせてくれるのは風である。何故風に翻弄される景色は見飽きないのだろう。つつましくけなげに地球の生命を根幹から支えている空気が、時に凶暴に自己をアピールする姿を確認する充足感なのかも知れない。
2017年01月15日
積雪15センチ
昨日からチラチラ舞っていた雪が今朝方より本格的に降り出してあっという間に15センチほど積もった。日中止んで日差しも出て、軒からドサッと積もった雪が滑り落ちる音がしたが、また降り始めた。どんより鉛色の空が一面に広がり、この調子では再び今夜は積もるかも知れない。今朝から一週間冬期最後の大接心で、この雪は実にグットタイミングだと喜んでいる。冷たい北風と降り積もる雪は修行する者にとって何よりの応援歌である。これでなくっちゃ、修行する甲斐がないというものだ。冬期の僧堂で寒かった想い出は枚挙にいとまが無い。こう言う厳しい状況になってこそ修行の馬力も出てくるのである。願わくばこの一週間ずっとこの調子で行って貰いたい。どうです!お天道さま!
2017年01月14日
つばき姫
「今度の旅行でね、傑作なあだ名をもらっちゃった」ロシアのテレビ取材に同行して二ヶ月ぶりに帰国したわたしは、玄関先で出迎えた父の顔を見るなり報告した。「つばき姫っていうの」途端に曇った父の顔を見て、アレクサンドル・デュマの「椿姫」のヒロインは高級娼婦だったことを思いだした。慌てて言い添えた。「ロシアのパッサパサにかわいたパンがあるでしょう。それで作ったサンドイッチ二人前を飲み物一切無しで平らげちゃったのよ。それで、「つばき姫」ってあだ名がついたの。唾液が豊富だってわけ」父の顔面から懸念の色がみるみる消えて口がほころんだ。もっとも、その微笑みには、かすかな苦味があった。適齢期を遙かに過ぎかかっている娘の色気の無さに、安堵とあきらめと心配をにじませた笑顔があった。父の亡くなる一年前、今から十六年も昔のことである。わたしは、この「つばき姫」というあだ名が大好きだ。胃腸が丈夫で唾液が豊富なのは間違いなく父譲りだから。(米原万里、エッセイより)
2017年01月12日
酔っぱらい
「父ちゃん、酔っ払うってどんなことなの」「ここにグラスが二つあるだろう。これが四つに見えだしたら、酔っぱらってことだ」「父ちゃん、そこにグラスは一つしかないよ」。酔っぱらい運転で街頭をぶち壊してしまった男が、国有財産破損罪で告訴された。裁判所で被告は懸命に弁明をする。「私が自分の車で街灯の柱を破壊したなんてとんでもない言いがかりです。なにしろ車は全然動かなかったんですから。車に乗ってキーを差し入れ、アクセルを踏みました。ところが微動だにしない。もう一度強く踏みました。一行に動いてくれない。もう、仕方ないから、思いっ切りアクセルを踏みました。すると、角の辺りからいきなり柱が出てきて凄い勢いで突進してきたんです」。酔っ払いの亭主を見かねた妻が詰め寄った。「ウォトカをとるの、わたしをとるの?ハッキリしてちょうだい」「その場合のウォトカは何本かね?」等々ロシヤでは酔っ払いに関する小話はいくらでもある。二組に一組の割合という高い離婚率のロシヤで、その理由の50%が夫の飲酒という。不思議なのは、何故これ程国民の健康を蝕み、経済を支える労働力に深刻な打撃を与え続け、社会の基本単位である家庭の崩壊要因ナンバーワンになっているアル中の直接的要因、すなわちウォトカの値段が、あれほど安いのかである。あらゆる物価が中央集権的政府により統制されているソ連に於いてなぜ???これは政策的意図があったとしか思えない。
2017年01月10日
絶食の勧め
外国へ行って、空港や駅の待合室等々で、新聞、雑誌、書物を手にする人の少なさにオヤッと思うことがある。逆に日本の公共交通機関を始めて利用した外国人が驚くことの一つに活字を貪る人の割合の高さがある。さすが江戸時代に国民の識字率百%に近かった国!である。書物にこれだけ親しむ国民はさぞ知的レベルが高いことでしょうな~!と一応褒めてくれるからこちらはお尻がむずがゆくなる。問題はどんな高級な知識であれ、のべつまくなし情報をインプットし続ける脳みそは、果たして知的であり得るのか。或るサイエンス誌にとても面白いレポートが掲載されていた。鶏の寿命は凡そ15年か20年、さる鶏卵工場の鶏たち、幼児から役に立たなくなるまでオリに入れられたまま、朝から晩まで餌をついばみ続け、平均1年半もすると老いさらばえ産卵能力を失い、処分され、絞殺されて他の家畜の餌になるかスープの素になる。あるとき、200羽の鶏が処分されるというので、1ケ月私に預けて下さい、この鶏を若返らせ、産卵能力も回復させますと言ったD博士がいた。どうするのかと見ていると、結局鶏たちはそのままその施設に留め置かれ、但し完全にD博士の管理下になった。何をしたのかというと、D博士は2週間もの長きにわたって、鶏たちへの餌の供給を完全にストップした。すると鶏たちは衰弱するどころかどんどん元気になって、ボロボロだった羽根が落葉するようにきれいさっぱり抜け落ち、代わりにツヤツヤと光沢のある美しい羽根が体を覆った。よたよたしていたのが溌剌と動き回り、絶食2週間もすると、1ヶ月ほど前に産んだ最後の卵より一回り大きな殻のしっかりした卵を産むようになった。ここから解ることは、益々情報過多になる社会、強迫観念に追いまくられるように情報を飲み続け、結局のべつ幕無し餌をついばみ続ける鶏卵工場のニワトリと同様なのではないかと思うのである。
2017年01月08日
お酒
年始は何と言ってもお酒から始まる。お屠蘇もそうだし、三日間休息日が続くので、結局飲むという事になる。私の場合は一人っきりだから、賑やかに・・・と言うわけではないが、気分的には大いにリラックスできる。ところで、友人で、しかし残念ながら亡くなってしまったのだが、その人は本当にお酒が好きで、だから飲みっぷりも、美味しそ~っ!朗らかな良いお酒だった。ところで面白い小話がある。「理想的な人間像とは?」「イギリス人のように料理がうまく、フランス人のように外国人を尊敬し、ドイツ人のようにユーモアーにたけ、スペイン人のように働き者で、イタリヤ人のように自制心に優れ、アメリカ人のように外国語が得意で、中国人のように高い給料を貰い、日本人のように個性豊かで、ロシア人のように酒を控えめに飲む人のことです」。これってなかなか面白い小話ですね。
2017年01月05日
差引勘定ゼロの法則
世の中の摂理は、ウ~ンと唸ってしまうほど旨く出来ているものだ。最終的には帳尻が合うようになっている。例えば私自身で言えば、青壮年期、嘗ての友人達は溌剌として華の時代を謳歌していた。しかしもう70代半ばとも成ると、世の中の第一線からは遠く離れ、只老いさらばえて行くだけ。それがどうしたってんだ!と言われると、返す言葉はないが、足はアカギレ手はシモヤケ、薄っぺらな着物でぶるぶる震えながら芋がゆ啜って過ごした青春時代の私。同じ世代でもこれだけ違うかと言うほどの別世界だが、その分今私は、大いに心の青春を謳歌している。毎日が楽しくって、やる事が次々に出てきて、2,3年先まで楽しい計画で埋まっている。当に差引勘定ゼロの法則だと思う。さて此処で引用させて頂いている通訳者の言によれば、通訳というのは翻訳者に比べると完璧さは要求されないされないのだと言う。一方翻訳の場合は表現が醸し出す雰囲気まで余すところなく厳密に伝えなければならない。また翻訳は後々まで残ってしまう。しかし仕事の成果がたちどころに消え失せていく通訳は、どんなまずい訳をしても痕跡が残らない。余りに傑作な誤訳でもしない限り、恥をかき捨てられる。基本的にはその場限りの「消えもの」なのである。またこれは余り大きな声では言えないが、同じ時間を掛けても、翻訳者は訳が絞り出されない限り、いつまで経っても仕事は終わらない一方、通訳者はどんなヒドい訳をしても契約時間が終われば仕事は終わる。しかしながらである。時々翻訳をすべきだと思っている。なぜか、通訳は訳(やく)が非常に粗雑に、貧しくなっていく危険がつきまとう。泥縄と付け焼き刃が交互に続くような人生に、しばし休止符を打ち、もう少し落ち着いて深みのある言葉との付き合いに身を浸してみるのも有益であると思うからである。
2017年01月03日
最先端の医療
これは昔、ロシアのモスクワで、ある著名な経済学者M氏が蜂に刺されてしまい、右手がグローブみたいにふくれあがったときの話である。早速ホテルの医務室へ行くと、通訳の私も同行のM氏も、扉が開いて思わず後ずさった。白衣の当番医は堂々たる体躯のおばさん、幅も奥行きも、小柄なM氏の二倍はあろうかと思われる。「オレ、いいよ。なんかヤバイよ」引き返そうとしたがもう遅い、「あら、今日はスズメバチの犠牲者が、これで三人目」女医さんは右手をむんずとひっつかみ洗面台のところまで引っ張っていった。「あああああああーっ」顔面を引きつらせ恐怖の悲鳴、あきらめの尻すぼみになったときだった。女医さんは蛇口をひねると、勢いよくほとばしり出る水の流れに、右手のふくれあがった部分をグイッと突っ込んだ。「ヒーッヒーッ冷てーっ」身をよじって手を引っ込めようとするが、そこは力の差がモロに出て、女医さんは片手で軽々と右手を水の中に押さえ付けたまま、もう片方の腕にした時計をのぞき込み、「何を大げさにわめいているの、患部を冷やすために、あと10分ほど水に当てますからね」きっかり女医さんの言ったとおりに解放されたときには、右手の感覚が麻痺するほど冷え切ってしまった。だがしかし、腫れは嘘のように引いた。友人の内科医に、この出来事を話して聞かせると、一笑に付された。「100年くらい前の話みたいだね」だがしかし、今の日本の薬漬け医療よりは、はるかに先を行っているのではないか、と言う気がしてならないこのごろである。
2017年01月02日
占い師
面白い事に私が遭遇した本物の占い師は全く別の分野にいた。ひところ酷い肩こりに苦しんだ私は腕の良い指圧師の評判を聞きつけ扉を叩いた。A先生は想像を絶する巧さで、指先は次々寸分の狂いもなくツボを探り当てていく。飛び上がるような激痛が走るが次の瞬間ウソのように頑固なコリがほぐれていく。神さまではないか、最初お会いしたときは単なる普通のオジサンにしか見えなかったが、突如まぶしく映り、思わずエリをただしながら教えを乞うてしまった。「先生、私は何でこんなに肩が凝るのでしょうか」神さまはニコリともせず吐き捨てた。」「性格が悪い!」思わず納得させられるほどの潔さである。そこまで言って下さるのなら、こちらも食い下がる。「そ、そ、その性格のどの辺が悪いのでしょうか」「まずあなたの部屋だが・・・全然掃除してないだろう。床も散らかり放題、机の上も埃が層をなしているのが目に浮かぶようだよ」ドキッ。「な、な、何で解るんですか」「そういう基本的なズボラでガサツな性格にもかかわらず、変なところでいやに神経質で細かいところがある」ドキッ。「筋肉の細かい繊維に添って、こう言う凝り方をするヤツは、そう言う神経の使い方をする傾向がある」。占い、つまりわずかな兆候から、肝要な事態を読み取る術とは、多数の事例に共通する因果関係を導き出す能力のようだ。統計と観察力の賜と言える。
2017年01月01日
謹賀新年
年始めの第1話。伊奈波神社に参詣に出掛けた。参道は露店が軒を連ね、大賑わいである。矢張りお天気が良いからだろう。東宮司のほころぶ笑みが浮かぶ。いつも不思議に思うのは、同じ鯛焼き屋でも長蛇の列と殆ど客の居ない店があることだ。多分あんこも皮も卸しているところは同じに違いないのに。もっと不思議なのは長蛇の列が変わらない占い師の店である。それも全て女性。言っちゃ~悪いが、あんなの全部インチキでしょ。見て貰う女性もそれは知っている。料金500円と言うのが、妙を得た設定で、あれは千円じゃ駄目、と言って300円でも駄目。ところでこんな話がある。マスコミでも評判の占い師で、引きも切らず列をなしている。1時間半も並んで、私の番になって待ち構える椅子に腰を掛けようとして目が合った次の瞬間、彼女は、「はい、今日はこれでお開き。じゃまたあした」とそそくさと商売道具を畳んで引き上げてしまった。「エッ、ウッソ-」騒ぎ出した背後の女性達に尋ねてみると、普段はあと2時間くらい営業しているという。女占い師はあの瞬間、私の目の中に、決して彼女を信用していない心を読み取ったのだろう。たしかにまるで詐欺師を見つめるような眼差しを彼女に注いでいた。自分を疑う客を占う自信はない。信頼し切っている者だけを相手にする。そう言うポリシーを打ち立て、客を嗅ぎ分ける新宿の彼女は、占い師としてはともかく、プロとしては、銀座の男より数段ましである。(つづく)