2017年05月05日
天道はいずこにあり
世間ではいささかも誠意なく、行動は不真面目で、だがかえって社会では信用を受け、成功を収める人が居る。一方至極真面目で誠意篤い人が、かえって世に疎んぜられ落伍者になる場合がある。これはどういう訳なのだろうか。思うに、志が如何に真面目でも、その所作が遅鈍でいい加減で邪な心では何もならぬ。これに反して、志が多少曲がっていても、その所作が機敏で忠実で、人の信用を得るに足るものがあれば、その人は成功する。行為のもとである志が曲がっていても、所作が正しいという理屈は、厳格に言えば有ろうはずはないが、聖人も欺くに道を以てすれば与しやすきがごとく、実社会では人の心の善悪よりは、その所作の善悪に重きを置く。どうしても所作の敏活で善なる者の方が信用されやすい。江戸時代の話だが、将軍吉宗公が巡視されたとき、親孝行者が老母を背負い拝見に出て褒美を貰った。ところが平素不良の無頼漢がこれを聞いて、それでは俺も一つ褒美を貰ってやろうと、他人の老婆を借りて背負い拝見に出掛けた。吉宗公がこれに褒美を下さると、側用人から彼は褒美を貰わんがための偽孝行であると申し立てた。すると吉宗公は、いや真似は結構と篤く労れた。志の善悪よりも所作の善悪が人の目に付きやすい。従って巧言令色は世に時めき、諫言は耳に逆らい、ともすれば忠恕の志ある真面目な人が疎んぜられるのである。これでは天道はいずこにありやと嘆かれるのだが、悪賢い人前の上手な者が比較的成功し信用される事例のある所以である。
投稿者 zuiryo : 2017年05月05日 11:22