« 2019年10月 | メイン | 2019年12月 »

2019年11月29日

朋遠方より来たる

昔、建長寺派の住職をしていた頃の知り合いのお寺さんが、ご子息さんを伴ってやって来た。私が鎌倉の寺に住職していた頃の懐かしい想い出が次々に沸き上がってきた。当時管長の湊素堂老師の話やご詠歌講の事、私は当時教学部長を仰せつかっていたので、ご詠歌も教学の仕事の一つだったので、何十年も前のことがいろいろ想い出されて、話に花が咲いた。朋遠方より来たるまた楽しからずやである。ところで一緒にやって来たご子息さんは、近くの僧堂で修行されたというはなし、今はある寺の住職をされ、一端僧堂を出てからも、臘八大接心には、何日間は現役の雲水と一緒に禅堂に詰めて接心をするという。彼だけではなく他に何人も、入れ替わり立ち替わり、雲水と一緒に座るという。良い伝統ですね~、と申し上げた。それに比べてうちの場合は、一端出たら、二度と禅堂で坐る者など居ない。この違いは何んなのだろうか?

投稿者 zuiryo : 14:15 | コメント (0)

2019年11月28日

南アのデビー

昔の英会話の先生だったデビーが南アに帰国して3,4年経つ。今でもインターネットで向こうでの生活ぶりや、旅行へ出掛けた様子など逐一伝えてくる。そこで解ったのは、彼女らが素晴らしい景色というのは、広大なサバンナにライオンや象が群がっているところや、広がる海などの自然と、飲み食いしているところばかりである。集まっては実に良く飲み食いする。他は愛犬の様子などで、いつ開いてもこのパターンだから、正直なところだんだん見るのに飽きてきた。まあ良く言えば大らか、広大な自然と常に向き合っているから、心も規模が大きく、アバウトなのだ。それが解ってきてから、日本にいるときの彼女のすることなすことの根っこが見えてきたような気がした。

投稿者 zuiryo : 16:06 | コメント (0)

2019年11月27日

チビ舞い戻る

暫く消息不明だったチビが舞い戻ってきて、餌を食べていった。タマもクロも全く姿を見せなくなったチビに、近頃は警戒の手を緩め、完全に追い出したと思ったらしい。以前のようにしばしば台所辺に来て見回ることも無くなった。その間隙を突いてやって来て餌を食べていったのだ。それはそうだ!何処へ行っても野良猫に餌をやる人など居ないのだから。油断を突いてきたのだ。よもやこう言うことになったとは思っていない。何とかこの状態が続けば良いな~!

投稿者 zuiryo : 10:29 | コメント (0)

2019年11月26日

先住さんの祥月忌

今日は先住老師の祥月命日なので、十人前後の、当時雲水でお世話になった和尚連中が集まって、お経をあげる。奇特なことである。私は伊深の出だが、当時お世話になった二人の老師の祥月命日などわざわざ出掛けたことなど一度も無い。勿論僧堂では雲水達がお経をあげているのだろうが、毎年その為に僧堂へ出掛けて供養のお経をあげるなど考えた事も無い。随分私の考え方とは違うものだな~と思う。それでは私は二人の老師のことなどすっかり忘れ去ったかというと、そんなことは無い。僧堂で日々雲水と暮らしながら、折に触れて往時を偲んでいる。つまりその忍び方が違うと言うことなのだろう。僧堂生活真っ最中で、老師のことはいつも想い出す。これが私の日常なのであって、改まって供養などいらない。

投稿者 zuiryo : 09:55 | コメント (0)

2019年11月25日

大根乾し

今日信者さんから沢山の大根を頂いた。早速水洗いしてハザを組んで干した。以前は近隣の農家へリヤカーを引っ張って行き、一軒一軒大根托鉢をした。これが膨大な量になり、干して沢庵漬けにするもの、千切りにしてゴザに広げ干すもの等々、典座辺は大根で溢れた。近年は雲水も減って、それを食べるものが少なくなり、また近隣の農家も農業をやめる家が続出、やがて大根托鉢そのものを止めた。それでも昔のことを覚えていてこうしてわざわざ先方さんから大根を持って来て頂いたというわけである。有り難いことである。矢張り年末には大根がずら~とぶら下がっているのは風物詩で、ぼつぼつ年末だな~と感じる。

投稿者 zuiryo : 20:16 | コメント (0)

2019年11月17日

子猫のその後

ホワイトハウスまで作って何とか飼ってやろうと思案したが、ついに断念した。タマが台所辺に終日張り付いて離れない。この辺界隈に潜んでいると確信しているようだ。チビのために置いた餌も全て食べてしまう。ここまで徹底すると、もう手の打ちようが無くなった。諦めるより仕方が無い。これがネコ社会のルールなのだ。動物には互助精神というのはない。食うか食われるか、勝った方が独り占めする社会なのだ。人間で良かった!

投稿者 zuiryo : 20:58 | コメント (0)

2019年11月16日

ホワイトハウス

どこからかやって来て住み着いた野良猫「チビ」ちゃんも、タマやクロに追い駆け回されたり、噛みつかれたりと、油断もすきもない状況が続いた。広いお寺といえども安住の地は無いと痛感したようだ。餌の時間になるとどこからともやって来て、緊張しながらそそくさと食べ、やがて何処かへ消えて行く。しかし近頃のこの寒さである。山中草葉の陰に身を潜めて居るらしいのだが、余りにも可哀想だというので雲水がホワイトボードでネコ小屋を作った、ホワイトハウスである。これを物置の裏山に設置したのだが、余りに目立ちすぎるのでシートで上を覆い、カモフラージュ。何とか旨く入り込んで住み着いたらしい。しかしクロもタマも、このところ一段とパトロールを強化、朝晩律儀に見回っている。油断も隙もないのだ。

投稿者 zuiryo : 14:27 | コメント (0)

2019年11月12日

僧堂の勉強

今日ある僧堂を出た和尚さんが用事で来られた。彼は私の出た僧堂の後輩にあたるので、遠慮無くいろいろ話をした。彼はその後転錫して、もう一つ別の僧堂でも修行をした。どちらも学校の講義形式の授業があって、それはそれで良い勉強になったと言っていた。確かに朝から晩まで作務ばかりで、薪を作ったり柴を束ねたりでは、身体は出来るが、頭は空っぽと言うことになりかねない。しかしこれが古来からの僧堂の伝統で、2・7・5・10の日はちゃんと講本を見ながら堤唱がある。これをきちんと守ってやっていれば、殊更に授業の日を設けなくとも事足りるはずである。その代わり決められた日はさぼらずに講座を設けなければならない。ここで重要なのは、禅僧としての境地を伝えて行くことである。一般的学問なら、世間へ出てから必要に応じて自分で勉強すれば良い。しかし境界(きょうがい)とか境地というのは、直接師の謦咳に触れて初めて伝わるものである。これを身体の中に染みこませ、それを我が境地として行くことが、僧堂修行の一番大切なところなのである。

投稿者 zuiryo : 15:27 | コメント (0)

2019年11月05日

葬儀の拝請

大接心中だが葬儀の拝請に二人和尚さんがやって来た。接心明けの翌日だそうで、休む間もなく出掛けることとなった。その為の法語などの準備で俄然忙しくなった。本音を言えば、大接心明けくらいは、ちょっと骨休めをさせてくれよ!と言いたいところだが、先方の都合もあるようで致し方ない。晩の参禅を聞いていたら、暗闇の中首の鈴をリンリンさせながらタマがパトロールから帰ってきた。自分のテリトリーには猫の子一匹入り込まさないと意気込んでいるのだ。元をただせば、自分もどこからかやって来た野良なのだ。当時既にいたクロの寛大な心により、また、タマの相当な厚かましさで、ついに住み込んでしまったのである。その過去も忘れて、最近「チビ」が典座辺の屋根裏に潜んで、餌を貰っているのを発見、爾来このパトロールが始まった。この恩知らずめ!

投稿者 zuiryo : 20:12 | コメント (0)

2019年11月02日

クロの日向ぼっこ

このところ良い日和り続きで、風もなく燦燦と日が降り注ぎ、ネコが日向ぼっこをするには誠に良い。クロは茶室の東向き濡れ縁で、お日様を一杯浴びて、気持ちよさそうにごろんと寝そべっている。至福の一時である。こういう時のネコは実に幸せそうな顔をしている。それを見ているこっちも幸せになる。さて住み着いた「チビ」はもっと小さい頃何度か怖い目を見たので、爾来警戒心が増して、誰を見ても一目散に逃げる。タマに噛み付かれたり、クロに追い回されたりして、よほど堪えたらしい。兎も角逃げる。骨身に染みたらしい。それは理解できるにしても、もと「野良」に、こうして毎日欠かさず餌を与え続けているこちらの気持ちも汲んで、もう少し慣れて欲しいな~と思ってしまう。

投稿者 zuiryo : 10:23 | コメント (0)