2019年11月12日
僧堂の勉強
今日ある僧堂を出た和尚さんが用事で来られた。彼は私の出た僧堂の後輩にあたるので、遠慮無くいろいろ話をした。彼はその後転錫して、もう一つ別の僧堂でも修行をした。どちらも学校の講義形式の授業があって、それはそれで良い勉強になったと言っていた。確かに朝から晩まで作務ばかりで、薪を作ったり柴を束ねたりでは、身体は出来るが、頭は空っぽと言うことになりかねない。しかしこれが古来からの僧堂の伝統で、2・7・5・10の日はちゃんと講本を見ながら堤唱がある。これをきちんと守ってやっていれば、殊更に授業の日を設けなくとも事足りるはずである。その代わり決められた日はさぼらずに講座を設けなければならない。ここで重要なのは、禅僧としての境地を伝えて行くことである。一般的学問なら、世間へ出てから必要に応じて自分で勉強すれば良い。しかし境界(きょうがい)とか境地というのは、直接師の謦咳に触れて初めて伝わるものである。これを身体の中に染みこませ、それを我が境地として行くことが、僧堂修行の一番大切なところなのである。
投稿者 zuiryo : 2019年11月12日 15:27