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2020年12月31日

大晦日

年末の諸準備も一応全て終わって、午後3時から隔宿諷経がある。外は雪が舞っている。風も冷たく 厳しい大晦日になった。先ほど境内を一巡、正月諸支度に手抜かりは無いか確認してきた。空気も冷たく、ぴ~んと張り詰めている。この寒さで山内も静まりかえって、いつもはお墓参りの人がしきりに出入りするのだが、殆ど人影もなく、静かな大晦日になった。午後3時半から本堂で晩課をよみ、そのあと各塔所にお参りする。約1時間半かかるのだが、節目には必ずこの行事がある。このあと総茶礼で正月三が日中の諸注意をして、薬石となる。午前零時に除夜の鐘をつき、ちょっと横になり午前三時半、祝聖、新年最初のお経となる。いつもの型どおりのこれら行事だが、一つ一つ踏んで行くと、正月だな~と実感する。この文章を書いている間に雪はますます激しく降ってきた。この調子で行くと元旦はすっぽり雪に埋もれるな~。

投稿者 zuiryo : 13:30 | コメント (0)

2020年12月30日

紅葉未だにしがみつく

普通ならもうとっくに紅葉は全て散って庭も綺麗に掃き清められ、と言うところなのだが、今年は温暖化のせいか、未だにびっしりとしがみついている。それが毎日パラパラと落ちてくるから、掃いても掃いても元の木阿弥となる。とてもじゃないがやってられない。その分温かいから楽ちん。北風がびゅ~びゅ~吹くと、身を切られるような冷たさとなるが、今年は凌ぎ易い。荘厳などの正月諸支度は既に終わって、今日は餅つき。これも殆どお供え用の丸餅、機械でグニャグニャとやって完成、昔のようにペッタンペッタンはなし。兎も角これだけ温かいと万事に楽で良い。ところで、今朝九州福岡のKさんにお礼の電話をした。毎年雲水へ沢山お菓子を送ってきてくれる。申し訳け無く、有り難いことである。僧堂はこう言う奇特な方に支えられて成り立っている。これらの年中行事もぼつぼつ済んで、あと二日で新年を迎える。何だかついこの間年末でバタバタしたかと思ったら、早くもまた年末でバタバタである。老齢化と言うこともあるのかも知れないが年々1年経つのが早くなる。これをあと何回か繰りかえすとあの世行きとなるんだな~と、ふっと思う。

投稿者 zuiryo : 09:52 | コメント (0)

2020年12月29日

いつもの年の瀬

いつもの年の瀬で、落ち葉掃きに精出している。まだ執念深くしがみついている紅葉を恨めしく見上げながら、お前の散るのを待っちゃ~居られね~よ~!まっ、風もなく、落ち葉掃きを邪魔するものもないのでせっせと掃く。年末ギリギリに届くお歳暮の礼状書き、もう郵便局は閉まっているので、尤も本局へ行けば良いらしいが、これは新年郵便局の営業が開始されたら一番に出そう。年末年始の諸行事もコロナで全てなくなり、拍子抜け。楽ちんと言えば言えなくもないが。バタバタ慌ただしい年末があって、一層正月が新しい気分になるわけだが、今年は何だか違う感じだ。、たまにはこう言う年末も悪くない。突如変な話だが、最近右耳の穴が矢鱈痒いのだ。指を突っ込んでグリグリやってみるが、イマイチ届かないこの歯がゆさ!忙しい年の瀬に馬鹿なこと言ってるんじゃ~ない。

投稿者 zuiryo : 13:50 | コメント (0)

2020年12月28日

同夏会

どなたが言い出しっぺになったのか知らないが、在るとき突如同夏会を開きますので斯く斯く然々お集まり下さいという手紙が来た。会場は岐阜市内なのでお膝元の開催で参加しないのも嫌みだと思われてもいけないと思い、あまり気は進まないが参加した。我々同夏は22人も居て、まれに見る盛大さだった。型どおり夕食をみなで食べ、一息ついて二次会が始まった。泊まるホテルの部屋を借りてなので、煩わしくなく良いやり方である。たっぷり食事を頂いてからなので、特別飲み食いもなく、自然に思い出話に花を咲かせると言うことになった。ところが中で一人矢鱈しゃべり出したら止まらなくなる男がいた。まるで独演会になった。それがあまりにも酷いので、早々に退散した。まっ、人には色々性格の違いや癖があるので、仕方が無いと言えば言えなくもないが、それがあまりにも酷いと興ざめである。まっ、懐かしさのあまり・・・だったと言えば言えなくもないが、度を超すと嫌みになる。お互い気をつけなければいけない。

投稿者 zuiryo : 10:00 | コメント (0)

2020年12月27日

持ちつ持たれつ

多分僧堂の師家はどなたもそうだと思うが、年末になると嘗て自分のところで修行し、その後住職となったものが、歳末にお歳暮を贈ってくる。誠に有り難いことで、修行時代はこちらこそお世話になったのだから、こうして何年経ってもその時のことを忘れずに義理堅く何か品物を送ってくると言うのは、頂くこちらが恐縮する。私も道場を引いてからそのようにお世話になった老師に何かお礼の品などを贈ったかというと何もしなかった。それを思うと、頂くこちらは更に恐縮この上ない。いつものパターンで、礼状に添えて干支の色紙を送ることにしている。これが毎年の恒例になって、この時期が近づくと、よっしゃ~、仕事だ仕事だ~!と張り切ってやる。まっ、こう言う慌ただしさも年末恒例行事で、これで一層歳末を実感する。世の中持ちつ持たれつで、何時か巡って今度は、こちらが先方に何かお礼の品をお送りすると言うこともあるかも知れない。先のことはお互い解らない。大切なことは義理を欠くな、と言うことである。

投稿者 zuiryo : 15:33 | コメント (0)

慌ただしい年の瀬

世の中にはもっと慌ただしい年の瀬を迎えている人は居るだろうが、うちとしては普段がのんびりしているからこの時期は一層慌ただしい感じがする。そう言っている私はどうかと言えば、まるで慌ただしくない。何か少し手伝ってやろうかな~と思うが、よろよろの足腰ではかえって邪魔、じっと部屋に引きこもっている方がかえって喜ばれる。まっ、頭の中だけで空想して、慌ただしいだろうな~と思っているだけ。ところで年の瀬になると必ず、喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます・・・と言うハガキが来る。文面を見ながらそうだそうだと改めて思うこの頃である。やがてそう言っているうちに私の方からそう言うはがきを出すと言うことの成るのだろう。とても他人事とは思えない。姉弟4人、みな老人になって、子供たちから厄介者扱いされているのだろうな~と思う。私はまだ良い方かな~?或いは思っちゃ居るが口に出して言わないだけかな・・・。とかく老人はひがみっぽくなる。

投稿者 zuiryo : 11:05 | コメント (0)

2020年12月25日

歳末

臘八も無事終わって、灯夜も済んで、年末1週間、臘八中出来なかった庭掃きや関係寺院へ歳末挨拶等々、みな大わらわ、てんてこ舞いである。そんな中、私一人のんびり部屋に籠もって、こうしてブログを書いている。申し訳ないみたい。しかし80歳目前の老人がそこいら辺でウロウロしていたのでは邪魔になるばかりだから、静かに部屋に籠もっている方が迷惑掛けずに済む。最近物忘れが酷い。我ながらあきれ返っている。もう人間もお仕舞いだ。カウントダウンが始まっている。と言う具合で書いてるブログも酷い暗さ!なら書くのを止めときゃ~!なのに書いてるこの矛盾。トホッ!

投稿者 zuiryo : 10:12 | コメント (0)

2020年12月24日

全身マッサージ

午後から1時間以上も掛けて私のマッサージのために弟子が来てくれた。彼の方法は体中ビシビシ痛む揉み方で、ヒ~ヒ~絶叫しながら耐え忍ぶ。しかし後は実に爽やかで、体中がほぐれるので辛抱のしがいはある。もう何年も前から、この調子で遠路やってきてくれる。有り難いことだ。治療中はこっちがいくら止めてくれ~と言っても情け容赦しない。絶対の自信を持ってやる。昨日臘八(ろうはつ)大接心が無事終わり、それを図ってやって来て呉れたわけだ。彼のように日頃から私の体のことを心配してくれるのは感謝感謝である。

投稿者 zuiryo : 13:46 | コメント (0)

2020年12月23日

灯夜

朧八も無事円成して翌日は灯夜である。冬至灯夜と言って、夜通しどんちゃん騒ぎをする。飲めや歌えの大競演である。昨日までは夜通し連日座禅を組み続け、一夜明ける翌日には一転して飲めや歌えの大騒ぎとなる。知らない人が見たら一体何をやってるのか!となるが、これが僧堂の伝統である。私が雲水だった頃は人数も30人近く居たので、中には殴り合いの喧嘩になったりと、それはまあハチャメチャな事になった。今では少人数と言うこともあり、雲水同士の懇親会みたいなものである。まっ、これはこれで良い。夜通し飲みまくって、喋りまくって、臘八中の無言の行から一転する。終わって後はコンコンと寝る。僧堂はこう言う変化の激しさが特徴で、裏を見せ表を見せて散る紅葉だ。

投稿者 zuiryo : 10:00 | コメント (0)

2020年12月22日

老化現象

新しい文章をクリックして改めて読み直したら、何と殆ど同じ事を前の日にも書いていた。それももう忘れて、この始末。あ~、俺の頭は壊れてる!

投稿者 zuiryo : 11:25 | コメント (0)

朧八大接心

15日から22日早暁に到るまでの8日間、臘八修行が無事圓成した。毎年恒例の事とは言いながら、今朝無事に終わって、ほっと一息ついた。私は二十歳の時からずっと続けているので、今年78歳だから、なんと58年間も欠かさず続けてきたことになる。だから何だっつうのと言われれうと、いや別に・・・となるが、その間健康で、この機会を続けられる環境に居たと言うことが尊い。これから先もどれだけ続けられるのか自分にも解らないが、禅僧としてこのお祭りに参加出来る幸せを更に延長できるように、健康で気力を失わずに続けたいと思っている。


投稿者 zuiryo : 11:05 | コメント (0)

2020年12月21日

臘八接了

明朝午前3時、暁天坐喚鐘が打ち鳴らされ、臘八大接心は無事円成となる。これを雲水として20年、師家になって38年、思えば随分長い間やってきたものだ。しかし何年やっても慣れるということはない。毎回新たな気持ちになる。その時々一緒にやるものが変わってゆくからだろう。20才から始まって今年78歳だから、何と58年間、良くも続けてきたものだ。これはその間ずっと志が変わらなかったことと、健康だったことである。今なお若い雲水と一緒になって接心が出来ることが何より有り難いことである。健康に産んでくれた両親に感謝である。臘八は何回やっても毎年新たな気持ちになる。老年になっても健康で若い雲水と一緒に坐禅が組めるのが何より有り難いことである。そして何年やっても八日目早暁の喚鐘の連打を聞く満足感は毎年新しい気持ちで聞くことが出来る。このことが私にとっては何よりも有り難いことである。  

投稿者 zuiryo : 15:32 | コメント (0)

2020年12月20日

足が冷たい

足が氷のように冷たい。手ならこすって暖めることも出来るが、足はそういうわけにはいかない。しかも足が冷たくなると体全体も冷えてくる感じだ。部屋に戻ったらすぐに足袋をはく。ジ~ンと暖かさがしみ通るようだ。雲水時代私は一生分の冷たさを味わったから、これから以降の人生で足が冷たいという言葉は、私の辞書から削除と思っていたが、僧堂に来てからはそういうわけにも行かず、ある程度の冷たさは避けられぬ。まっ、それでも行事も終わって部屋に戻れば温かくなってくる。適度に冷たかったりまた温かったりの繰返しで、全体的には程よいバランスである。なんと言っても冬はこの寒さが修行には一番良い。もし日本の気候がハワイのようだったら修行にはならないだろう。寒いのは誰だっていやに違いないが、しかしこの寒さのお陰でピリッとした修行が出来るのだ。北風小僧の寒太郎ありがとう。

投稿者 zuiryo : 18:58 | コメント (0)

2020年12月19日

頭がパ~

臘八も五日目ともなると、私の頭は殆どパ~になってきた。もう少し若い頃はそんな事は全然無かったのだが、老化とともに体力気力が衰えて、こうなっちゃった。仕方が無い。気力との戦いだ。他に代わりが居ないのだから、気力を呼び覚まして頑張るより外にない。こんな情けないことは一般的には言わない方が良いのだが、私は自分に正直だから何でも包み隠さず言っちゃう。気の毒なのはこう言うパ~老師について修行する雲水である。まっ、ものは考えようで、こういうことも大きく捉えれば修行の一つで、ここでぐっと辛抱して頑張れば、また良いこともある。修行は心意気だ、理屈じゃない。雲水よ!頑張れ!私も頑張るから。

投稿者 zuiryo : 09:59 | コメント (0)

2020年12月18日

尾籠な話

今朝私が糞詰まりになって悪戦苦闘したという甚だ尾籠な話を書いて失礼申し上げた。その後イチジク浣腸3本使い見事出た出た出た!甚だ失礼申し上げました。お許し頂きたい。繰りかえすようで更に失礼を顧みず申し上げると、世の中いろいろ困難はあるが、糞詰まりぐらい困難はない。これは声を大にして言いたいと思っている。ただ世間一般ではブログにこんな尾籠な話は書かないので、私の場合型破りというか恥を知らないというか精神的に幼稚というか、と言う具合で、書いてしまった。便通が普通にあると言うことはどれだけ幸せなことか改めて深く思い知らされたというわけ。便秘の一件はこれにてお仕舞いお仕舞い。

投稿者 zuiryo : 13:54 | コメント (0)

親切な友人

今朝ブログに糞詰まりに苦しんで、イチジク浣腸3本使って漸く出た、と書いたら、すぐにメールをくれて、いろいろ指南してくれた。持つべきは友である。早速やり方をファックスで送りますとご親切に連絡を頂いたが、そのファックスがふんずまりで使い物にならないのだ。踏んだり蹴ったりとはこの事だ!まずはファックスの糞詰まりを直してからだ。物事は一つ調子が狂うと、不具合の連鎖となって、結果踏んだり蹴ったりとなった。あ~この世は絶望のみだ!

投稿者 zuiryo : 10:24 | コメント (0)

糞詰まり

今朝は糞詰まりで格闘した。イチジク浣腸を3本使ってもまだ糞詰まり、全く参った。格闘のすえ漸く出る物は一応出たが、こう言う便秘は、老齢化と共に年々酷くなってきた。以前は便なんぞはスルリスルリと出た物で、何の苦労もいらなかった。昔師匠も便秘気味で、今日はスルリット出たぞ~!と嬉しそうに言うのを聞き、きったね~話しするなよ!と思ったが、今では自分がそうなっちゃった。まっ、私は事の次第を雲水に聞かせようとは思わないが・・・。ともかく便秘ぐらい苦しいものはない。格闘の据え全部出て心は日本晴れ!ちょうどお日様がキラキラ差し込んで、これは今の私の心境そのものだな~と感じた次第。

投稿者 zuiryo : 09:39 | コメント (0)

2020年12月16日

期待通り雪が舞う

やれ嬉しや!期待通り終日雪が舞って頃合いの寒さになった。臘八はこうでなくっちゃ!開け放った禅堂を雪が吹き抜けて耳がちぎれそう。私も嘗て雲水の頃は、もう勘弁してくれ~っ!と言うくらいの寒さを、ー伊深は臘八は1月15日からー、を味わった。変に生暖かいような臘八ではかえって調子が狂う。寒い思い出は山ほどある。この寒さが良いのだ。今私は暖房の効いた部屋で窓から降る雪を眺めている。それじゃ~言ってることと違うじゃないか!となるが、これで良いのだ。卒業生!老骨には鞭打たない。暖か~い格好して首をすくめている。こう言う姿を自ら暴露してはだれるが、まっ良いって事よ!雪がじゃんじゃん降ると、お~!天からごっつおが降ってきた!と大きな声で喜んでいた老師を思い出した。

投稿者 zuiryo : 13:46 | コメント (0)

2020年12月15日

臘八

今日から臘八大接心が始まった。本年最後締めくくりの修行である。これには寒いのが一番である。木枯らしが吹いて小雪が舞うと良いのだが、北風も吹かず、小雪も舞わない。ちょっと拍子抜けである。雲水時代は1月15日からで、もっと寒さがきつかったが、その僧堂、その僧堂で古来からの決まりがあるから仕方が無い。要は如何に充実した中味のある修行にするかが問題である。臥単を取り上げられ、坐るほか無いという状況で、どれだけ頑張れるかである。何も大接心ばかりではない。日常で如何に修行をするかが問われる。昔居た雲水で、目から鼻に抜けるようなのが居た。こいつはすごい奴が現れたぞ!と思った途端、な~んだ、室内は公案回答集を見てやってくる、作務はさぼる、下山したらどこかの大学院に入ろうと、その受験勉強に明け暮れ、これで帰って行った。世もお仕舞いだ。

投稿者 zuiryo : 09:50 | コメント (0)

2020年12月14日

見事な紅葉

境内一番奥に隠寮が在る。その建物の山側の庭一面、今や紅葉が盛んで、見事というほかない。しかし見事な紅葉も場所柄人っ子一人居ない。唯一私が眺めるだけ。勿体ないったらありゃ~しない。別に木は、見て見て見て!なんぞと言わないが、折角こんなに美しいのだから、きれいだね~!と木に向かって褒めてやっている。雲水のお陰で、庭は一面掃き清められ、ひらひらと紅葉が舞う庭を、一人眺めているのは本当に贅沢の極みだ。僧堂は世俗一般の贅沢はないが、こう言う美しい庭を一人眺める贅沢がある。茶室の濡れ縁に坐って、穴の開くほど眺め続けた。

投稿者 zuiryo : 15:19 | コメント (0)

2020年12月12日

お歳暮

例年の事ながら今年も連日お歳暮が届く。それは有り難いことで、大半は雲水の口に入るのだが、申し訳ないことである。先方にたいしたこともせず、こうも律儀にお歳暮を頂いては、唯々お礼申し上げるよりほかない。腹を空かせて大口空けて待っている雲水にはこれ以上の嬉しさはない。心から心からお礼申し上げます。例年この時期に書く干支の色紙をお返しに差し上げるのだが、こんな程度では十分なお返しにはならないが、外に何もないのでこの方法で毎年ご無礼している。僧堂は15日から臘八大接心が始まり、今年の締めくくり修行である。この臘八が無事に済んで初めて新年を迎えられる。

投稿者 zuiryo : 14:33 | コメント (0)

ポンコツ

お寺は法人だからそう言う関係の書類が随分来る。私の老化ドタマでは殆ど対応できない。一応未だに代表役員になっているので、それらの書類に記入して提出する義務がある。そこで若い雲水に頼むということになる。何だか近頃そう言う書類が増えてきたような気がする。まっお役所も必要があるからなのだろうが、もう全くいやになっちゃう。お前みたいな奴はそろそろ引退しろっ!と言う天の声が聞こえてくる。つまり代表役員の務めが果たせないのだからこれは当然といえば当然のこと。対雲水の修行だけでいえばまだまだ十分対応できると思っているが、社会的にはそれだけでは済まされないわけだ。お坊さんは骨董品と同じで、古くなればなるほど価値が出てくる。しかしこれは置物的でいえばの話で、社会的活動ということになると、途端に使い物にならないポンコツとなってしまう。私もいよいよポンコツエリアに突入ってとこだ。

投稿者 zuiryo : 10:13 | コメント (0)

2020年12月09日

目と耳と歯

だんだん年を経てゆくと表題の三つが順番に悪くなってくる。いわば年寄り病である。今日は歯の定期点検日である。まあ年寄りにしてはまだ歯は良い方で、勿論何本かは修理して使っているのだが、ほぼ自前の歯で飲み食いできる。丈夫な歯に産んでくれた母へ感謝である。眼も今では老眼鏡だが、それまでは実によく見えていたし、耳は今でも地獄耳で、聞こえすぎて困るくらいだ。問題は頭である。ここがパ~!になったらもう人間お仕舞い。大分若い頃より馬鹿になってきたが、まだ何とかほぼほぼ正常人でいられる。しかしどれも若い頃から比べるとレベルは下がって、周りの者が年寄りはこんなもんだと割り引いて考えてくれているので何とか保っている。一般家庭と違い僧堂は皆修行者だから、相当迷惑掛けてもそれで通って行けるから有りがたいことだ。その感謝の気持ちを忘れずにこれからも精々頑張ろう。

投稿者 zuiryo : 09:07 | コメント (0)

2020年12月08日

カレンダー

この時期になると1枚に1ケ月の用事が全て書き込める大きなカレンダーが届く。前年の記録を見ながら1月から順に全て書き込んでゆく。これをやると頭の中だけでは来年一年が全て終わる。恒例行事が相当あるので、何だか毎年ほぼ同じ事の繰返しで、こうしてやがて死んでゆくのかな~と、ふっと思う。間もなく80に手の届くところになってきた。1年を振り返っても、これっ、というようなこともなく、ほぼ同じ事の繰返しである。何だか虚しい気がする。さりとてあまり変化があるのもしんどいし、相変わらず・・と言うのが、ほぼほぼ良いところなのかも知れぬ。

投稿者 zuiryo : 21:26 | コメント (0)

2020年12月06日

寺には現在一応公認の野良猫が5匹居る。皆元はどこからかやって来てだんだん棲みつくようになった。棲みつくと言ってもいろいろ段階があって、部屋に堂々棲みついてもう離れないというのから、道具小屋周辺のダンボールを住み家にしたり、多種多様である。いずれにしても朝晩しっかり餌を与えて飢えないようにはしてやっている。日中は広い境内それぞれ慣れ親しんだ場所があって、そこでまったりと過ごし、朝夕の餌の時間、俄然ハッスルする。合計5匹、よく観察するとそれぞれ性格の違いがあって、なかなか面白い。しかし人になついて可愛らしいのが一番である。私の係は「タマ」で、元ボスだったが、去勢手術をしてからはその地位から転落、今でも一応デカイ顔をしているが、スッカリ過去の勢いはなくなり、「一切クウヤク」となり、興味は餌を食べるだけの張り子の猫になってしまった。猫の良いところは散歩に連れて行かなくても良いことだ。見ていると昼間は殆ど丸くなって寝ている。まるでこの世に寝るために生まれてきたようだ。たまにネズミを捕まえると、私も一応仕事してますよ~!と言わんばっかりに、くわえて見せにやってくる。タマは偉い!と褒めてやると誇らしげに顔を上げて得意満面の笑みを浮かべる。と言うようなわけで、5匹の猫と仲良く過ごしている。

投稿者 zuiryo : 12:59 | コメント (0)

2020年12月05日

干支の色紙

毎年干支の色紙を書く。初期の頃は差し上げる人も少なかったので、一枚一枚干支の絵を描いてそれに賛をしていた。ところが年々数が増え、ついに印刷にした。少々味気ないが仕方が無い。その後これが年末恒例行事となり、色紙郵送先へ梱包作業が仕事になった。と言っても私の処へ来るのはそう膨大な数ではないので、毎日自分の仕事にしている。頂いた物は私一人で食べられないので、結果雲水の口に入る事になる。まっ、これはこれでみんな喜んでいるので良しとする。こう言うのは大変と言えば大変だが、有り難いことで、感謝感謝である。一方では年々私自身の老化がすすみ、万事作業の手がトロくなって、有り難いような迷惑なような具合になってきた。しかし小鳥の巣で雛が大きな口を空けて親鳥の帰るのを待っている姿に似て、微笑ましくも、有りがたくも思っている。忙しい忙しいと言いながらも、これが毎年恒例の年末なのである。

投稿者 zuiryo : 15:40 | コメント (0)

2020年12月03日

お歳暮

この時期はいつも連日お歳暮がきて、その礼状や整理整頓で大わらわとなる。まっ、有り難いことではあるのだが、正直有り難迷惑でもある。こんなことを言うと、このバチ当たりめ!となるが、実際に頂いたものを食べたり飲んだりするのは殆ど雲水で、私は礼状係である。こう言うのは日本の古くからの習慣だから、善し悪しの問題ではないのかも知れないが、どうにかならないものかと正直思う。一方では、これで品物が売れ、世の中が回ってゆくのだから、ガタガタ言うな!である。世の中持ちつ持たれつで成り立っている。だから虚礼とばかりは言ってられない。大きく見れば潤滑油である。とは言うものの礼状やお返しなど、事務的作業を伴うわけで、だんだん老化してきたらしんどいな~とも思う。年末の恒例行事である。

投稿者 zuiryo : 14:32 | コメント (0)

2020年12月02日

血も涙もない眼

ドライアイになって、もう二十年以上にも成るが,依然として,血も涙もない眼が続いている。今日もその治療のための目薬をもらいに医者へ行ってきた。私はそうも非人情な人間ではないと思うが、事実はそうなのである。言われてみれば確かにそう言う一面もあるような気がする。ようするに「冷たい」のだ。勿論修行にいちいち人情を挟んでいては成り立たない。冷たいほど良い。だから心身共に立派な禅僧になっているというわけである。人情をかけるのは一時は良いように見えるが、ぐるっと一回りすると、それは良くないと言うことが解ってくる。独善的で、独りよがり、身勝手が師家のトレードマークである。人間は結局自力でしか生きてゆけないのだから。これが真理だが、こればっかりだと血も涙もない冷たい世界になる。そこでいささか人情が必要になってくる。問題はその人情のかけ方である。無闇矢鱈人情を掛ければ良いというわけではない。非人情も時には人情になる。要は時と場合を見て的確に判断することである。しかし人に理解されない場合が多い。で、どうするかだが、まっ、結局年月を待つと言うことになる。正しく理解された時は、大抵その人は死んでこの世には居ない。人生って結局そう言うものなのだろう。

投稿者 zuiryo : 12:07 | コメント (0)