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2021年06月18日
講座
午前中講座で雲水に話をしながら、ふっと、遙か昔の雲水時代のことを思い出した。約20年の間、10年ずつ、二人の老師に仕えた。お二人とも、講座が嫌いで、制中でも大接心の時しか開講しなかった。知らないうちはそう言うものだと思っていた。とんでもない間違いで、制中は2・7・5・10は講座日と決まっている。それは自分が師家になって、いろいろ調べて解ったことだった。だから正しいやり方で現在はやっている。しかし思うに,どうしてそうも講座から逃げ回っていたのかと言う事である。酷い吃音だからとか、特別何か障害があるのならやむを得ないが、そうではないのだから、嫌がる理由が分からない。講座がそんなにいやなら師家なんかにならなければ良いのだ。老師になるまでには凡そ20年間は修行しなければならない。その20年をただ漫然と過ごしていたわけではないはずだ。葛藤の日々の積み重ねである。であるなら、嘗て自分が過ごした僧堂での日々を思い出し,今、その世代の雲水を前にして、喋ることはいくらでもあるはずだ。それがないと言う事は、昔のことはもうすっかり忘れてしまったのか、失敗を重ねた自分に向き合うことがためらわれるのか、いずれかだろう。縁あって自分のところへやって来て修行している雲水を目の前にすれば、頑張って修行して欲しいという気持ちが自然にあふれてきて、思わず口をついて出てくる。それが提唱というものだ。それくらい心を込めて喋っても本当に伝わるのはほんのわずかな雲水だけだ。しかしこれをやり続けなければ師家の役は全うできないのだ。
投稿者 zuiryo : 2021年06月18日 14:40