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2022年03月29日

泥棒

常住、三応寮に泥棒が入り、雲水の財布からお金が盗まれた。早速警察官が数人やって来て、あっちこっち調べて帰って行った。以前にも似たような事件があって、またか!である。僧堂は普通の寺よりも万事オ~プンで、いろいろな人が出入りするので、犯人逮捕も、なかなか難しい。わずかな?あいだの来事である。生き馬の目を抜くと言うが,油断も隙もあったもんじゃない!このところあんまりいい話が無い。トホッ!である。内輪の出来事となると、お互いを疑ってしまうことになり、何だか後味悪い。このところ良い話はめっきり減って、ただでさえ少々落ち込んで、湿りがちの気分の時、此の始末だから、ガックリ!だ。

投稿者 zuiryo : 15:40 | コメント (0)

2022年03月24日

脳みそ固まる

最近はちょくちょく、此の手の話が多くなった。それだけ自分の頭が日々退化していることを実感するからだ。言いたくないが、つい口から出てしまう。まっ、大らかに受け取れば、年相応って事なのだろうが。自分でそう言っておいて、落ち込んでいるのだから始末が悪い。老いの愚痴である。回りに若い者でも居れば大いに嫌われるところだが、居ないから誰にも嫌われることも無い。ふっと目を窓の外に向けると、山の木々がゆらゆら風に揺れている。さんさんと降り注ぐ日の光が眩しい。居室の左前に目をやると、,愛犬ハチの元気な頃の写真がある。私もいずれ死んだら必ずお前のところに行くから、また一緒に山歩きしようぜ!

投稿者 zuiryo : 10:51 | コメント (0)

2022年03月23日

忘れ物取りに・・

こう言うのも頭の老化なのだろうが、最近矢鱈忘れ物が多くなった。昨日も友人と出かけ、そこへ忘れ物、さっき取りに行ってきた。ちょくちょく行くところなので、先方からお知らせがあり、事なきを得た。そばからものを忘れる。全くやんなっちゃう。外見は今までと少しも変わらないように見えるが、頭の中味はもうスカスカなのだ。まっ、こう言うのも余り深刻に考えすぎると、ノイロ~ゼに成るから、そこは適当に・・・。人間八十にもなれば、こんなもんだ!と腹を括って、余り気にしないことにしている。雲水達も配慮してくれるので、厚かましくそれに胡座かいている。嘗て若かりし雲水の頃、老師が今の私と同様なスカタンをちょくちょくやって、口とんがらかして文句を言っていた頃を思い出した。因果は巡る、今度は私が同じ事をやっているのだから・・。

投稿者 zuiryo : 15:06 | コメント (0)

親しき友

昨夜は親しくさせて頂いている友人三人で食事をした。私にはそういった友人は他にはいないので、たまにこうして誘って頂けるのは有り難い事で、良い気晴らしになった。友人の日常の出来事を聞きながら、ちびちび飲むのも良いもんだ。私は世俗のことは全く解らないので、へ~っ!そうなんだ~!と思い,興味深く拝聴させて貰った。専ら聞き役で、これをバックグラウンドミュ~ジックにして、チビチビやったと言うわけである。単調で同じ事の繰返しの日々に、こうして誘って頂き、良い気分転換に成った。持つべきは親しき友である。と、そうしみじみ思った。

投稿者 zuiryo : 05:09 | コメント (0)

2022年03月21日

少々ゆったり・・

この頃の陽気は何となく鬱を誘う。そよそよと春風が吹き抜け、静まりかえった境内はまるで時間が止まったようである。自室のガラス越しに見える山の木々は時折ゆらゆらと揺れ、鈍い春の光が差し込んでいる。静かに流れる時を噛み締めながら、私にはこう言う時間が一番だ!と満足している。嘗て先輩で,矢鱈人恋しがっていた方が居た。孤独な幼年期を一気に埋め合わせるように、人にガツガツしていた。お気の毒だと思った。後年それがもとで大失敗をやらかして、駆け足で死んで行った。これが人生!とも思ったが、不幸せな幼年期を死ぬまで背負い続け、結局浮かぶ瀬もなく、六十才そこそこの短い人生を終えた。人それぞれとも言えるが、勿体ないことだ。こう言っている私だってこの先どうなるか解らない。明日死ぬかも知れないのだから。

投稿者 zuiryo : 14:22 | コメント (0)

2022年03月18日

小接心

15日から小接心が始まった。4月15日入制を1ケ月後に控え、徐々に心の準備作業である。いきなり走り出したら、脇腹が痛み出すなんってこと、小さい頃良くあったが、それと同じで、いきなり入制ではスム~ズに大接心に入れない。助走と同じである。心も体も共に入制準備というわけ。さて恒例の梅祭りが近くの公園で始まり、その流れで、うちの境内にも人が押し寄せる。僧堂なのでどうぞどうぞというわけにも行かない。山門にバリケ~ドを張って、侵入を阻止している。立ち入り禁止の張り紙程度では、殆ど無視、勝手にじゃんじゃん入ってくるからだ。うちは道場ですなどと言っても、それって何ですか~?てな具合。少々オ~バ~かなと思うが、バリケ~ドを築いて阻止ってわけ。それで困るのが目下僧堂入門者受け入れ中であること。山門がバリケ~ドで囲われていたのではまずい。厄介だが、入門者受け入れの午前九時頃までは何もせずそのままにして置いて、その後すかさず立ち入り禁止の柵で囲う。これが毎朝の仕事、厄介だが仕方が無い。しかし今日現在、肝心の入門者は一人もやって来ない。閑古鳥がしきりに鳴いている。

投稿者 zuiryo : 09:58 | コメント (0)

2022年03月17日

雑草と戦い

広い境内至る所から草が生えてくる。当に草と戦争である。三十年ほど前伽藍を全て新築したとき、出来るだけ草引きをしないで済むように、様々工夫したのだが、それでも至る所から草が生えてくる。お寺はどこも似たようなものだろうが、これは偏に手数で、人数が多ければそれだけ楽だ。その反対ならエライ目に遭うと言うわけ。毎年恒例のことで、ガタガタ言う事はない。こう言う悩みはむしろ贅沢な悩みと言うべきで、ただひたすら黙々と草引きに勤しんでいる,今日この頃である。

投稿者 zuiryo : 04:59 | コメント (0)

2022年03月16日

部屋でじっくりと・・

この処、京都へ出かけたり、立て続けに来客があったりと、バタバタしていたので、今日はジ~ッと部屋籠もり。晴れ上がって、キラキラ輝く日差しを眺めている。相向かいの山の木立が風になびいてゆらゆら、物音ひとつしない。「無為」と言う言葉が浮かんだ。動き回ってナンボという世間の方々から見れば、何と暢気なことを言って・・・、と非難されそうだが、これが私の日常なのである。僧堂は制間になって、下山する者がいたり、また新たに入門する者があったりと、人が動く時期でもある。新人を大いに迎え入れたいと願っているのだが・・。処で今は境内中、雑草の生えるシ~ズンでもある。これは偏に手数が勝負、しかしその手数がやや不足気味で、ひたすら黙々と草引きである。相向かいの山の木々が風にゆらゆら揺れている。

投稿者 zuiryo : 15:34 | コメント (0)

2022年03月14日

東海庵老師津葬

東海庵雪丸老師の津葬に出かけてきた。臨済各派併せて三十数ケ僧堂あり、その数だけ老師が居られるわけだが、私が最も尊敬する老師である。東海庵はうちの寺とは大変法縁の深い寺で、毎年開山忌には相互で行き来している。年齢は私より二,三歳上の方だが、不思議に馬があうと言うか、自然に親愛の情が湧いてきて、お目にかかるときは何時も幸せな気持ちになった。あんな野郎早く死にゃ~がれ!と言う奴は何時までもピンシャンしていて、少しでも長生きして欲しいな~!と心から思う人は、あっという間に亡くなってしまう。全く世の中理不尽なことが多いものである。人格というのは、一朝一夕に出来上がるものでは無い。長い間生まれ変わり死に変わりしながら、漸く1個の人格者が出来上がるのだ。そう言う意味でも本当に惜しい人を失った。

投稿者 zuiryo : 09:30 | コメント (0)

2022年03月12日

パソコン操作

万事に便利なパソコンを使っているのだが、決まり切った事はスム~ズにゆくが、ちょっと難しいのになると,途端に頭がデングリ換えって、訳分からなくなってしまう。今日もその始末で、パソコンを投げ出し、雲水に見て貰った。あっという間に解決!まるで手品のようである。て~ことは、もう私のドタマでは此のパソコンは限界値を超えているという事だ。さりとてこれを手放すことは出来ない。日常あらゆる事にパソコンが関係しているからだ。特に記録の類いは全てパソコンに詰め込まれている。便利なものほど一端トラブルと始末が悪い。なんだかんだと文句を言いながらも,此のパソコンの恩恵に浴しているわけで、諸刃の剣である。てなわけで、今日も雲水に見て貰いトラブル無事解決となった。安堵!

投稿者 zuiryo : 11:05 | コメント (0)

2022年03月06日

気力萎え

どうもこのところ気力の衰え甚だしい。時に後ろを押されながら日々過ごしている。まっ、誰でも老人になれば多少そうなるのはやむを得ないのかも知れないが、我々の修行に定年は無く、むしろ老いれば益々修行の味が出てこなければならない。処が私はと言えば、全くそういう感じは無く、ただ馬鹿のド阿呆に向かって駄々走りである。結局、碌な修行をしてこなかった報いである。今頃反省しても追っつかない!かくなる上は、開き直って、煮て食われようが焼いて食われようが、勝手にしや~がれ!と、ケツ捲って、厚かましく生きて行こうかな~とも思っている。八十才にも成れば、後進に道を譲って、楽隠居!ってな生き方もあるが、人間怠け癖が一旦付いたら、ハイ!それまで~よ!である。生きている限りは、坂道を踏ん張って登って行かなければ,生きている価値はない!まっ、眼から火花が飛び散るような激しい修行を積んでこられた方々は別だが、私のような者は老いてもなお頑張って、コツコツ地道に積み上げて行くより他には無いのだ。

投稿者 zuiryo : 19:47 | コメント (0)

2022年03月04日

朋、遠方より来たる

今日はかって住職した地、鎌倉から三人やって来た。当時親しくさせて頂いた和尚さんが亡くなられ、葬儀に出席して欲しいという事であった。わざわざ遠方の岐阜までそのお願いに来られたわけで、恐縮この上ないことだった。当時小学生だった子が、今や立派な住職になり、驚かされた。こちらがヨボヨボ老人になるわけだ!昨日は長らくお世話になった書道の先生の葬儀で出かけ,今日はかっての同僚和尚の葬儀のお願いに来らたわけで、いじれも寂しい話ばっかりが続き、順番で行くと次は、私自身になるな~と、ふっと頭をよぎった。まっ、誰でも年を取ればそういうことになるわけで、今更ガタガタ言うことはないが、あんまり触れたくない話である。あと何年生きられるか解らない。精々、悔いなく生きて、清々しく死にたいものである。

投稿者 zuiryo : 20:21 | コメント (0)

2022年03月03日

書道の先生の葬儀

二十数年前、此の寺の住職になって間もなく、ある方から墨蹟を1枚お願いしますと言われた。それまでごく普通の寺の和尚だったので、人様から墨蹟を頼まれるなんぞという事はまったくなかったので、これには驚いた!ぼぼぼく蹟!!いや~、今までそんなもの書いたことがないので・・・・。と言うと、何でも良いですからお任せしますので是非1枚!と半ば強引に頼まれてしまった。困ったのなんのって!今まで雲水時代は老師の書いた墨蹟の印押しはやったことがあったが、何と今度はそれを自分が書く側になろうとは・・・!頭を抱えた!苦し紛れに、エエッイ!と殴り書きしたら、これが酷いの何んのって、とてもじゃないが他人様に差し上げられるようなものでは無い!それから七転八倒の苦しみが続き、これはきちんと書道の先生に付いて一から学ばなければ駄目だ!と解った。八方手を尽くして良い先生を探しまくったところ、何と直ぐ近くに高名な先生が居られることが解った。爾来二十数年間、大先生の下で書道を学んだ。現在は先生からは離れて、独自で書いているのだが、そのお世話になった大先生が九十余才で、大往生され,今日その葬儀に出かけた。先生の遺影をじ~っと見ていたら、遙か昔、徹底的に鍛えられた頃が思い出されて、思わず涙がこぼれた。

投稿者 zuiryo : 21:00 | コメント (0)