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2022年04月30日

大四九

今日は大四九で、私と雲水一人が留守番役、隠寮の畳廊下から、籐椅子に長々伸びて、庭とそれに続く山を眺め、しばらく過ごした。下は苔に覆われ一面の緑、相向かいの山は鬱蒼と茂り、初夏の日差しに照らされ、風にかすかに揺れている。物音一つしない。まるで時が止まっているようだ。そう言う贅沢な時を過ごした。寺は何も用事が無いと言う日は殆ど無い。しかし今日はどう言う加減か、電話一つかかってこない。僧堂に贅沢と言うのは別世界の話なのだが、こう言うひとときを過ごす贅沢もあるのだ。明朝は午前3時、祝聖である。

投稿者 zuiryo : 20:20 | コメント (0)

2022年04月29日

幸せ

幸せはこんなもんかな半分こ、と言うのがある。幸せ感などと言うのは欲を言ったら切りが無い。我が身の分限を知り、まっ、この辺が我が分際には丁度良いところかな~と、こころ決めをする。これが肝心である。ところが,頭では解っていても、欲は際限なく我が身に襲いかかり、新たな欲の再生産が止めども無く始まる。こうなると当に欲の守銭奴となってしまう。分限知らずである。こう言う輩は傍から見ていても哀れを観ずる。心の品格の問題で、下品な奴は袖の下からチラチラそれが覗いて、だらしなく下着がはみ出ている姿に似て、見苦しいな~と感じることがある。こう言うのも人のことを言っているうちは良いが、知らぬ間に自分自身のことになって、更に我が身の恥をさらすことになるから、余程気を付けなければならぬ。

投稿者 zuiryo : 09:16 | コメント (0)

2022年04月28日

小半(こなから)

よく夢を持ちなさいと言うが、自分の夢を果たすとは、他者を蹴落とすことである。オリンピックの優勝者が一人居ると言う事は、何百人の夢を果せなかった人をつくることである。だから、夢というやつは,あんまり軽々しく持たない方が良い。まして、「夢を持ちなさい」なんて、人に強制する話じゃない。「小半(こなから)」という言葉がある。酒で言うと二合半のことである。1升飲みたいところを、半分にすると五合、そのさらに半分が小半(こなから)、酒も小半、欲望も小半にしておく。それが幸福という状態だと思う。これは慢性的現状不満症の私の戒めを込めた幸福論である。

投稿者 zuiryo : 15:44 | コメント (0)

2022年04月25日

旅の疲れ

旅と言っても、鎌倉へ出かけて、葬儀に参列しただけなのだが、今日はガックリ来て、朝の行事が済んだところで、少々休ませて貰った。漸く今起きて、このブログを書いている。まっ、日増しに体力の衰えを痛感する今日この頃である。さて、出かけていったそのお寺は、私が嘗て鎌倉で住職していた寺とは比較的近くで、駅前商店街に行くときは必ずそのお寺の前を通って出かけていた。だから他のところと違って、特に親しみを感ずる。お寺の入り口から長い参道があって、鬱蒼とした木々に覆われ、立木1本1本までが、思い出と繋がるような気がした。昔のご縁で、こうして遙々岐阜から出かけて葬儀に参列できたのは、本当に有り難いことであった。故人が呼び寄せてくれたのかも知れない。境内に漂う空気まで懐かしく、温厚な和尚さんの生前が思い起こされた。

投稿者 zuiryo : 09:45 | コメント (0)

2022年04月23日

鎌倉の一夜

先方のご厚意で、鎌倉市内の住宅地にある高級和風旅館に泊めて頂いた。嘗て鎌倉に住職していた頃、大変親しかった方の,津葬である。久しぶりに彼の寺に入って、懐かしい思い出で一杯になった。前晩には,彼の娘さんがわざわざ宿までお出で頂き、数人の仲間と共に会食した。この娘さんがまだ小学生くらいだったから、もう立派な大人の女性に成長されたのには,改めて驚かされた。遙か昔のことが怒濤の如く想い出され,涙が出るほど懐かしさで一杯になった。図らずも嘗ての友人が遷化され、それが縁になってこう言う巡り会いが生れたのは、故人のお引き合わせかな~!遷化されたのは不幸なことだが、その為にこう言う有り難くも懐かしい思いにしたることが出来た。亡くなられた和尚さんは、大変人柄の良い方で、私もこれから、この方のような心持ちで生きて行こうと思った。

投稿者 zuiryo : 18:37 | コメント (0)

2022年04月21日

鎌倉、住職の頃の友人、遷化

私が嘗て鎌倉市内の寺に住職していた頃、結局七年半ほどで、現在地の岐阜に転住したのだが、わずかな期間だったが、今なお私のことを想い出し、友人の遷化を知らせてくれる。本当に有り難いことである。彼のお寺は歴史の教科書にも登場するような古刹で、つとに有名なお寺である。亡くなられた方のお師匠さんは,嘗て伊深で修行され、その縁もあって、大変親しくさせて頂いた。私より五つ上の方だから、今年八十五才になられる。その方の親友だった派内の和尚さんも数年前に亡くなられた。嘗て鎌倉住職時代、親しくさせて頂いた方々が次々に亡くなられ、次は俺の番かよ~!と、ふっと頭をよぎった。まっ、物事は順番だから、私の寿命は良くてもあと数年ってところだな~。トホッ!

投稿者 zuiryo : 14:02 | コメント (0)

ふっと、昔のことを思い出し・・

こういうのも自分が老いたからなのかも知れないが、ふっと遙か昔のことを想い出す事がある。同僚で小さい頃から小僧修行に出され、僧堂に入ってきた者がいた。彼は、私のような好い加減な小僧と違って、何人もの小僧仲間が居る大寺で、お互い切磋琢磨したようだ。すでに幼少の頃から僧堂修行をしていたようなものだ。お寺のことはあらゆる事柄に精通していた。だから同夏(どうげ)と言っても、まるっきり鍛えられ方が私とは違っていた。彼がもしそのまま修行を続けていたら、必ず立派な老師になって,いずれかの専門道場の師家となり、大いに活躍したことだろうと思う。しかしそうはならなかった。詳しく書くのは憚れることなので省略するが、まっ、これが人生というものなのかも知れない。別の見方をすれば、そう言う縁に恵まれなかったと言う事だと思っている。今想い出しても惜しい人材を失ったと思っている。

投稿者 zuiryo : 07:43 | コメント (0)

2022年04月18日

四九日

伊深に居る頃は大接心中は四九日もなく、1日目からぶっ続けで接了まで同じ時間割で行なわれていた。新到の頃からずっとそうだったから、それが当り前だと思っていたが,どうもそうではなく,臘八以外は、矢張中日には四九日もあリ、開浴もあり、多少メリハリがある。それは此の僧堂に来て初めて知った。またその前後に設けられる練返し・地取接心等も、その名前の通り、普段とは違うメニュ~で時間割が組まれる。当り前なことだ。しかしそれらもこっちに来てから初めて知った。僧堂という処は主催者の老師の意見が最優先されがちで、雲水は決められたことにただ黙々と従うだけ。しかし規矩というのは、元来伝統的に継承されてきた僧堂独自の規則であって、その時の老師の言で勝手に決められるのではない。これは当り前のことである。ところが僧堂独特の空気があって、老師が絶対的支配者になってしまう。とんでもないことだ。規矩とは僧堂内で生活する老師を始め、全ての修行僧が従わなければならないものである。この当り前の事が,何処でどう取り違えられたのか、全ての決まり事はあたかも老師の手中にあるが如き解釈は大間違いである。僧堂の指導者は肝に命ずべきである。

投稿者 zuiryo : 13:43 | コメント (0)

2022年04月16日

大接心四日目

連日好天に恵まれ、入制大接心も順調。普段と違う大接心特有の時間割にも慣れてきて、徐々にエンジンがかかってきた。起きてから寝るまで分刻みの時間割も板に付いてきた。これをもう何十年もやって来た。突然話は変わるが、隠寮庭の新緑のみずみずしいことと言ったらない。緑滴るである。雨上がり、一面の苔も美しい。これを眼福と言うのだそうだが、綺麗に掃き清められ、物音一つしない庭をじっと眺めている。私の知る限りでは,意外と隠寮は,何処の僧堂でも、境内の隅っこにあって、比較的チマチマしていて、庭なども小規模だったり、庭そのものも無いと言う処もある。うちの場合は庫裡の奥に独立していて、付属した庭も広々としており、相向かいの山には何時も小鳥がさえずり、新緑が目に染みるようである。隠寮の中でも逸品だ。まっ、こう言う良い環境で修行させて貰っているのだから、一層頑張らなければと改めて思った次第である。

投稿者 zuiryo : 14:34 | コメント (0)

2022年04月14日

把針灸治

明日から入制大接心、今日はその前日の把針灸治、剃髪をして、明日からの大接心に備える。午前中に洗濯を済ませ、今は午後4時からの隔宿諷経を待っているところ、どんより曇って今にも雨が降ってきそうな気配、本堂の諷経後、搭所巡りもあるので、それまで何とかお天気が保つて欲しいものだ。名目は把針や灸治の日なのだが、破れたところを縫ったりする者など殆ど居ない。そんなのは破れた時に直ぐやるもので、今日は暇を貰って、日頃質素な食事だからこう言うときは贅沢豪華版の食事をする。もっとも費用は自前だから、財布と相談だが。終日だと少しゆっくり出来るが,今日は午後四時から隔宿諷経があるので、そうゆっくりもしておれん。さっさと食って、さっさと帰って来なければならない。なかなか休日と言っても忙しい。毎回そうなのだが、大接心前はそれぞれ準備もあって、何となくバタバタする。此の雰囲気もまた良いものだ。僧堂で何年も修行した者で無ければ解らぬ心境である。

投稿者 zuiryo : 13:06 | コメント (0)

2022年04月13日

急に暑くなって・・

ここ二,三日、急に暑くなってきた。間もなく,15日からは入制大接心が始まる。以前は5月1日からだったが、これで行くと、7月山内のお盆施餓鬼の日程と重なってしまうので、それを避けるため、入制を半月前倒して、4月15日からに改めた。これで様々不都合だった点が改正され、僧堂行事はスム~ズになった。僧堂の場合は特に一定不転が原則なので、新たな日程を組むときは少々躊躇したが、何より修行第一で、思い切って、新方式にして良かった。不都合だな~と感じても、以前から此の方式でやっていたのだから・・・てな具合で、妄執にとらわれ、日程一つ変えるのもおおごとだが、良いことなら躊躇せず、バリバリやるべきだ。まっ、ほぼ改めるべき処は全てやったので、以後は問題なしと思っている。夏期はこれから暑くなる一方で、大汗かきながらの修行になる。何年やっていても,こればっかりは慣れることはない。

 

投稿者 zuiryo : 13:47 | コメント (0)

2022年04月08日

坐禅会

知り合いの方から頼まれて,二十人ほどの坐禅会を引き受けた。近年はなるべくお断りすることにしているのだが、親しい方からたってのお願いと言う事と、余り長時間では無かったので、これならいけるだろうと言う事で、お引き受けした。僧堂もいろいろな方々のご支援を受けているので、まっ、持ちつ持たれつってとこ。大変真面目な会で、お世話するこちらも楽だった。目下少人数で遣り繰りしているので、こう言うのを引き受けるのも、よくよく考えながらしないといけない。また私は人前で喋るのが大の苦手で、出来ればお話の時間はない方が助かるのだが、これも是非と言われれば逃げ回るわけにも行かず、馬鹿なドタマを振り絞って、何とかお役目全うした。

投稿者 zuiryo : 20:17 | コメント (0)

2022年04月06日

開講

以前は入制大接心に併せて開講の日にしていたが、そうなると開講行事と、大接心第1日目が重なって、肝心の大接心の出鼻をくじくようになったので、これを改め、開講は独立して別の日に催すことにした。これは私が嘗て雲水修行をしていた頃からの懸案事項で、此の不都合を改めることにした。実際やってみると見事、バッチリはまり、実に快調である。僧堂規則は一端決められると一定不転になって,動かしがたい事のようになってしまう。大間違いである。雲水修行が第一で、その他の行事は付属品、だから、修行の邪魔になる事柄はどんどん変えて行けば良い。

投稿者 zuiryo : 20:42 | コメント (0)

2022年04月05日

開講

以前は入制日にあわせて開講にしていたが、そうなると出頭寺院のお茶出しだし等の接待に人を取られ、同時に本堂辺の諸支度、また大接心の支度等々、天手古舞いになり、肝心の大接心が疎かになってしまっていた。そこで入制とは切り離して,何日か前に行事は済ませておいて、15日からの大接心をスム~しに迎えようという考えから、このようにした。大成功で、これならもっと早くからこうすれば良かったと思った。まっ、何事も工夫一つで、少しでも雲水修行が良い風になるためにはどうしたら良いか,と考えての事である。僧堂は慣例第一主義の処だから、不都合だな~と思いながらも、慣例に従ってやって来た。まっ、これもその時の条件で異なり、肝心の修行が疎かになる場合は、どんどん変えて行く必要がある。兎も角、雲水の修行が第一なのだから。

投稿者 zuiryo : 09:32 | コメント (0)

2022年04月04日

左目、チクチク

今朝起きたら,左目がチクチク痛む。特別眼を酷く使う、ってなこともないのに、痛み出したのである。早速何時も診て貰っている眼科医へ、目薬を貰って帰る。兎角,老人になると、こういうことがあるものだ。老化現象の一環である。眼だから痛む左目だけ使わずにおこうと思っても、必然的に両目を使うので、此のチクチク、辛気くさいったらありゃ~しない。しまった!帰りに眼帯を買ってくれば良かった!そうだ、寝りゃ~良いんだ!しかし、眠くも無いのに寝るのも嫌やだしな~!てなことで、嫌~な気持ち抱えながら、今日一日過ごすことになった。

投稿者 zuiryo : 12:22 | コメント (0)

2022年04月03日

頭がパ~!

確か以前にも同様の題目でブログに乗せたように思うが、またまた、パ~が再発して、どう新規エントリ~したら良いのか解らなくなってしまった。雲水に教えて貰い、事なきを得た次第。我ながら嫌になっちゃう。たんびに、パ~!パ~!と言ってると、その内本格的にパ~になって、此のブログシリ~ズも、「お知らせ、作者、頭がパ~になりましたので、これにて修了させて頂きます。長らくご愛読頂き有り難うございました。」てなことに成るかも知れない。言いたくはないが、この言葉が目の前にちらついてきた。私も八十才、パ~度合いも,年相応って事かも知れないが、思っただけでもぞっ!とした。人間誰でもたどる道で、遅かれ早かれ私も「マダラパ~から完全パ~!」に成るのだろう。周囲にあんまり迷惑掛けないうちに、さっさと死んだ方がましかな~!と思うようになった。トホッ!

投稿者 zuiryo : 15:45 | コメント (0)