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2022年06月23日
再びお医者さん通い
大接心も無事円成、今日は毎月通っているお医者さんへ2軒はしご、比較的すいていて、直ぐ帰ることが出来た。午後から一寸曇ってきて、開け放ったガラス戸からそよそよと心地よい風が通り抜け、ゆらゆら山の木々も風になびいて、視覚的にも涼風を感じる。いつものことながら、大接心明けは、気分もゆったりとして、何とも気持ちが良い。籐椅子を思いっきり延ばして、ドテ~ッと寝転んで、庭とそれに続く鬱蒼と茂る山をボ~ッと眺めた。遙か昔、私が仕えた方は、大摂心が終わるやいなや、待ってましたとばかり、バネ仕掛けの人形のように早朝より何処かへ出かけられた。その頃をふっと思い出した。どうしてそう言う気分になるのか今なお、理解できない。ボ~ッと、ヨラユラと揺れる山の木立を眺めていると、不思議に心安らぐ。これが私の幸せなひとときなのである。
2022年06月19日
暑さでボ~ッ
毎年のこととは言いながら、夏末大接心は特に日中暑くてたまらん。大汗かきながらの坐禅となる。尤も私は日中部屋で、暑けりゃ適当に涼しい格好で過ごす。現役雲水の頃は,暑いなんてもんじゃない、滝のように汗がだらだら流れ落ちて、襦袢・着物・法衣等々、ぐちゃぐちゃに,汗まみれとなる。この時期の大接心はいつもこんな風で、閉口したものだ。役位になってからは、何枚も着物を用意しておき、汗で濡れた順に次々に干して、乾いたところで着替える。汗のまま干しただけだから、こざっぱりとは行かぬ。まっ、ぐちゃぐちゃ汗まみれのままよりはいくらかましってとこ。今は部分部分でしか坐らないので、汗まみれのままっつことはなくなったが、それでも汗はしたたり落ち、雲水の頃をふっと思い出す。夏期はこの暑さ、避けようもなく、まっ、毎年の風物詩と思っている。
2022年06月18日
夏末大接心、なか日
1週間の接心なか日、今日から後半戦に入る。一息つく日である。この繰り返しを、雲水時代から,その後師家になって、もう60年近く続けている。よくもその間病気にもならず、心変わりもせずに、続けてこられたものだ。それは幾たびか挫折の危機に陥ったとき、よき先輩方に支えられてきたからである。とてもじゃないが、私一人の力などでは保たない。しかし今となっては、そう言う人の殆どは既に亡くなられてしまった。感謝の言葉も伝えないうちに。やがて私も遠からず死んで行く。記憶も思い出も悉く消え去り、永遠に無に帰することだろう。まっ、それで良いんだ。大接心の度に、いつもこのように、.お世話になった方々を懐かしく、有り難く思い起こす。
2022年06月16日
昔のことを・・
老いると不思議に昔のことをよく想い出す。目新しいことは日常殆どなくなるからで、心の向かうのは自然に遙か昔のことになる。それが悪いことだと言うつもりはないが、アグレッシブに生きていないのだ。よく死んだ子供の年を数える・・・なんて言うが、これも同様で、「前へ・・・」の気概がない。私は今年80歳だが、いまだ現役真っ只中で、日々雲水と格闘している。ボ~ッとなんか、しちゃ~居られない。我々の世界はやや骨董品に似たところがあって、少々不出来でも古けりゃ、それなりに価値が出てくる。私なんかもその典型で、古びた価値だけで生きてるようなもんだ。それも上等な骨董品なら光ってくるが、並みじゃ~しょうがね~な~!
2022年06月15日
夏末大接心
今朝から夏末大接心が始まった。ここへやって来てから既に38年になる。丁度40歳に此処の住職になったので、今年は78歳である。師家としては大分老齢であが、物は考えようで、長く健康で、このお役目を果たすことが出来たのは、天に感謝感謝!である。朝早く起きるのも、提唱するのも、喚鐘を出すのも、別段苦痛ではない。もう長年の習慣になっている。遙か昔ある老師が、僧堂は早朝起きるのだが,それが嫌で毎日寝忘れしていた人が居た。そんなに嫌なら,師家になんかなるな!である。やたら腹が立ったことがある。やがて罰が当たって、60そこそこで死んだ。あったり前だ!当時雲水同士で,あいつは師家という肩書きが欲しいからやって来たのであって、修行しようなんぞとはこれっぽっちも思ってない!まっ、こう言う悪例は別として、幾つになっても若い雲水と早朝の勤行から始まって,坐禅・喚鐘・講座等々、出来るのは本当に幸せなことである。いくら願心があると言っても、これを一般のお寺で出来るかと言えば、それは無理だ。こうして僧堂で若い雲水と共に生活するから出来るのだ。そう思って雲水に感謝している。根本は僧堂修行が好き!これに尽きる。
2022年06月13日
ブログも愈々寿命かな~ッ
振り返って我がブログを読んでみると、殆ど同じことを繰返し書いている。こりゃ~典型的認知症だ~っ!と言うことで益々恥を世間にさらす事になるので、今日を限りにしばらく閉店することにした。何人の方が読んで下さっているか解りませんが、読者諸氏に感謝!さようなら。
矢鱈、ボ~ッ!
最近は目新しいことも殆ど無くなり、日々ボ~ッと過ごすことが多くなった。だからこのブログも、こと改めて書くべきものは何も無い。なら止めときゃ~良いじゃないか、となるのだが、それではブログそのものを閉じてしまえと言う事になるので、それは一寸待ってちょうだいと思い、しつこく閉店せずにくだらないことを書いては、よしよし!と独り言を言いながら細々と続けて居るっつわけ。最近はこのような調子だから、想像するに、このブログの読者は殆どいないな~っと思っている。それならなお一層書く意味も無くなるわけで、ボツボツ閉店かな~っと感じている。まっ、私の日記だから、別に人様が読んでくれようがなかろうが、それは良いとして、頭の体操だと思って、続けている。老人になると、目新しい事柄は殆どなくなる。したがって,過ぎ去ったことを、飽きずに繰返し思い起こして、自己満足している日々となった。だから何処でも老人は若者から嫌われるっつわけだ。まっ、日記と同じで、自分勝手に満足して居りゃ~良しだ!
2022年06月11日
人間ドックパ~ト2
昨日人間ドック専門医院へいきなり出かけて行って、お願いしますと言うと、あらかじめご予約下さいと言われてしまった。あったり前のことである。すぐに引き返して来た。で、これからどうしたら良いのか?そこで今朝再び電話したら、空きが出たらご連絡しま~す!でガチャン。以上の結果から分かったことは、私はほぼ認知症扱いで、またあの人だわ~ッ!である。老人になるという事はこう言うことなんだと思い知る。別に腹が立つと言う事もなく、身も心も完璧に老人になりきった。よ~く考えれば、そもそも80歳にも成って、今更人間ドッグも無いのだ。その為に癌になって死んでも、天寿を全うして安らかに息をお引き取りなりましたとなる。つまり私の実年齢と頭の中が旨くかみ合っていないのだ。世間で言えば、80歳はほぼ寿命年齢なのだから。ということで、この一件はこれにてお仕舞い!お仕舞い!
2022年06月10日
隠寮の廊下から
うちの隠寮は建物全体の一番奥に位置し、構造は九十度の鍵の手になっていて、庭と裏山に続き、鬱蒼とした緑に包まれている。1間幅の広い畳廊下に籐椅子を置いて、目一杯伸ばし、ボ~ッと寝転んで、庭を眺めていると、何とも言えぬほど、幸せな気持ちになる。寺自体は比較的街の中心街にあるのだが、道路からは長い参道があって、左右に六ケ寺の塔頭(たっちゅう)寺院が並び、その一番奥の正面、後ろを山に囲まれ、鬱蒼とした緑に囲まれた処に僧堂がある。だから街の騒音も殆ど無く、一日中小鳥のさえずりが途絶えること無く、じっと目を閉じていると、深山幽谷に棲む心地である。一寸暇が出来たときは、籐椅子にドテ~ッと寝転んで、目に一杯の木々の緑と小鳥のさえずりを聞きながら、英気を養う。寺には外に何も無いが、この環境が何よりのご馳走である。
2022年06月09日
人間ドック
何を思ったのか、突然、人間ドック入りだと言い出して、大きな専門の病院へ行った。受付でその旨言うと、当然の事ながら、「~ご予約は?」「いいえしていません。」「ではこれからご予約下さい」あったらリ前だ!待たせて置いた車に乗ってユ~タ~ン。寺に戻った。ジ~ッと考えた。私のドタマは完全にイカレポンチ!になってしまったのだ。ガ~ン!しばし部屋に籠もって、うずくまって、ジ~ッと考えた。もう駄目だ~ッ!酷く落ち込んだ。人間やめたくなった。誰でもこう言う老化現象はある。とは言うものの、この調子で行ったら、将来はどうなるんだ!暗雲が低く垂れ込め、心は闇になった。まだこう言う反省文を書けるうちは良いのかと思うが、やがてそれも無くなって、バカバカバカ!が背後から追いかけてくる。まっ、老いると言う事は、こう言うことなんだ!
2022年06月08日
人間ドック
毎年、近くのドック専門医へ予約して、人間ドック入りする。ここ30年来の恒例行事である。今のところ大きな問題も無く、安堵しているのだが、さて今年は如何?老齢化すればするほど、ドキドキする。私はいたって小心者で、悪い方悪い方へと考える質で、何事もなしという結果が出ると、ほっと安堵の胸を撫で下ろす。もう80歳にも成ったのだから、いつ死んでも充分人生やり抜いたと思って、「~さてと、今年の検査結果は~、癌です~っ」ガ~ン!まっ、たとえそうなっても良いように、今年は肝を据えて、矢でも鉄砲でも来や~がれ~!と言う気構えで臨もう。
2022年06月04日
隠寮の廊下から・・
私が今住んでいるところは、以前閑棲さんが使って居た所である。亡くなってしばらく放置していたのだが、少々使い勝手の悪かった部分を一部建て直して、現在は私が住居にしている。1間幅の広めの廊下は畳敷きにして、その部分も8畳間二間とリンクさせ、随分使い勝手が良くなった。一時、近くに住んで居られた高名な先生にお越し頂き、その部屋を使って、仲間10人ほどで、書道の稽古に励んだ。月日が経ち、先生も亡くなられ、書道教室も自然消滅、無人になった。今では、そこに籐椅子を置き、目一杯伸ばして、ドテ~ッと寝転んで、庭とそれに続く山の緑一杯をボ~ッと眺めるのが、私にとっては何よりの憩いになった。ところで話は変わるが、人間老化してくると、万事に鬱陶しくなり、何も無いのが何よりの憩いになる。だから頭は日々退化し、馬鹿度は日に日に増して、体の老化と共に、頭のてっぺんから足のつま先まで、くまなく馬鹿になった。今では馬鹿が着物着て居るようなもの、歩くたびにバカ!バカ!と、ホコリと共に廊下に落ちて行く。
2022年06月02日
万事に煩わしい・・
これは老化の典型だと思うのだが、一寸したことでも、矢鱈煩わしく感じ、結局、止めだ!止めだ!となってしまう。良いことじゃないと思いつつ、この流れは止められない。そもそも人間八〇年も生き延びていること自体が、間違っている。とっくにあの世行きなのに、だらだら生き延びている。結果、全てが煩わしく感じ、止めだ、止めだとなるわけだ。さりとて明日にでも首くくって鴨居にでもぶら下がろうか、てなことにはならないし、そう言う見苦しい姿をひと前にさらすことは到底出来ない。こう言うのを昔から、”穀潰し”と言う。聞く方もうんざりだろうが、実は本音も半分はあるのだ。ほんまもんの高僧方なら、また違うのだろうが、ボンクラボンの盆助!では、長生きして恥を世間に晒すばかりで、ちっとも良い事はない。老害!そう言われても、命のある限りは生き続けなければならない。トホッホッ!である。