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2022年07月31日
制末
今日は夏期の制末、午前中は各所掃除、午後4時からは隔宿諷経,本堂の勤行から始まり、開山堂、塔所巡拝と、酷暑の中広い境内をあっちこっち歩き回ってお経を上げる。まあ暑いの何んのって、汗が噴き出して袈裟の上までびっしょびしょ、恒例の行事とは言え、ホトホト参る。幾つまでこの過酷な行事を続けられるかな~と、ふっと思う。まっ、平生、風通しの良い、広々した部屋で、悠々と過ごさせて貰っているから、たまにはこう言うこともやらなければ、差引勘定が合わぬ。窓越しに強烈な日差しに燃えるような瓦屋根を見ながら、世の中旨く出来とるわいと思った。幾つになっても,元気でこれをやれると言う事が幸せなのである。トホッホッ!
2022年07月29日
起単留錫
夏期の制中修行も愈々終わりに近づき、今日は午前中講座、その後引き続き、起単留錫、それも終わって、この猛暑のなか、外掃除をしている。近年は人少が続き、この広い境内を箒で掃いていたのでは、とてもじゃないが追いつかない。そこで機械を導入、ブロア~で葉っぱを吹き飛ばし、集めて処分ってわけ。まっ、僧堂本来の姿ではないが、これも仕方がないことだ。処で最近メダカを飼っている。ある人が、これって可愛いでしょうと、水槽、水を循環させる機械等々、一式そろえて、隠寮廊下の隅の台に据えてくれた。水槽の中には水草が揺らぎ、時々見ると、メダカが数匹、チョロチョロ、泳ぎ回っている。メダカは犬のようにワンワン吠えたり、猫のように土足で綺麗な廊下を走り回ることもなく、誠に良い。餌は小さな粒のようなものを、時々上から振りかけてやればもうそれでOK。手間いらずで良い。ところで話は変わるが,私も既に80歳、丁度40歳の誕生日に入寺したので、間もなく在錫40年になる。まあその間いろいろあったが大病もせず、今なおこうしてお役目を果せるのは仏様に感謝である。時々、引退かな~と、ふっと頭をよぎる。
2022年07月28日
コロナワクチン4回目
午後12時半、川出医院へ4回目ワクチン接種に勇んで行ったら、接種の人は2,3人パラパラ、拍子抜けした。あっという間に済んで,帰ることが出来た。これでコロナワクチン接種4回目は全て終了、ほっと安堵す。一応大事を取って本日は部屋で閑かに事務やら整理やらで過ごす。それはそうとして、しかし今日の暑さは、お~ッ、猛烈~ッ!龍さんは天衣寺施餓鬼会で大汗かいて帰ってきた。こうして部屋でじっとしていても汗がしたたり落ちるのだから、天衣寺荷担は大汗掻いただろう。本当にご苦労様。みんなが酷暑のなか奮闘しているのだから、自分だけ部屋籠りしていたら罰が当たりそう。申し訳ない!さりとてこの老いぼれがしゃしゃり出て、やる仕事なんかありゃ~しない。典座辺を一度ちらっと見て直ぐに部屋に舞い戻り、こうしてブログを書いているっつわけ。しかし今日の暑さはどうだ~っ!尋常の沙汰ではない。
日々耄碌
私のドタマは日々耄碌して、それは酷いものだ。これで良く人間をやっていられるものだと,我ながら感心している。屹度周囲の者達は、「いや~!参ったな~!」と日々、格闘しているに違いない。年寄りくらい迷惑なものはないのだ。しかし解っちゃいるけでやめられないのである。人間そのものを辞めないから、益々周囲に迷惑を掛ける悪循環は続くことになる。このドタマ、外して付け替えたいくらいだが、人形じゃないから出来ないっつわけ。トホッホッ!である。まだこの自覚がいささかなりともあるうちは良いが、その内これもなくなり、遂には、俺のすることになんか文句でもあるのけ~っ!となっちゃう。もうこうなると手の付けようもない。このように先々のことを考えて行くと、暗澹たる気持ちになって、、もう、目の前真っ暗、とても人間なんかやってられない。私の場合は、日常周囲に話し相手がいるわけではないから、もう地獄に向かって駄々走りだ。トホッホッ!では済まされない。嘗て、鎌倉に居たとき,年老いた母と二人で暮らしていた。この母は、90歳近くなのに気丈で、チャキチャキしていた。まっ、それは良いのだが、あっちこっちへ買い物に出かけ、滅茶苦茶、やって来る。私が後からあっち行きこっち行き、頭下げまくるっつわけ。ついにお手上げとなり兄に身柄を引き取って貰った。一寸可哀想にも思ったが、仕方なかった。何十年も前のことが突然甦って、涙がこぼれるほど懐かしく、会いたいな~っ、会いたいな~っと思った。
未熟児
遙か昔、僧堂で修行していた頃、同僚で,人を叱りつけるとき,いつも「未熟児!」と言っていた男がいた。コラッ!とか、馬鹿!とか言うのと違って、「この、未熟児め!は,一層グサリとこころに刺さった。あれから数十年経って、今改めて、この未熟児と言う言葉を思った。確かに今でもグサッ!と心に刺さる。現在とは、その人の歩んできた過去の結果である。裏返せば現在を見ていれば、その人の過去が丸見えになる。つまり現在は過去の現れってわけ。突然話が変わって恐縮だが、姉は小さい頃からいつも、どうして私の顔はこんなにブスなんだ!と嘆くこと、しきりであった。弟の私としては、そうかな~??マ~ちゃんをブスとか美人とかで見たことがないから、不思議で堪らなかった。今、ふっと、こんな遙か昔のことを想い出し、思わず、えへっへっへ~!と笑っちゃった。まっ、顔なんかくっついてりゃ~良いんだ。もしくっついてなかったら大ごとだが。蝶よ花よの美人だって、しわくちゃ婆婆~になったら、皆同じじゃ。
2022年07月27日
近頃,愚痴連発
老いてくると人間こころが弱くなって、必然的に愚痴が多くなる。僧堂は世間と違って,何十年経ってもほぼ同じ事の繰返しで、ゆえに、難しいことなんて、な~にもない。朝起きたら顔を洗って、おしっこをして、法衣を纏い、本堂で朝の勤行、坐禅、喚鐘、茶礼、雑巾掛け、粥座・・・、てな具合で孜孜ゴツゴツと進む。この繰り返しを二十歳の頃から今までズ~ッと続けているのだから、すっかり身について、歩くときは右足を出して次ぎに左足を出して・・・・てなことを、考えなくと自然に歩くことが出来ると同じように、僧堂生活のあらゆる事柄は全て、スム~ズなことこの上ない。それならもう言うことは何もないのだが、それでもいろいろ愚痴が出る。まっ、これって、病気みたいなもの。人間老いると誰でも自然に愚痴が出てくるものだ。いわば、一種の”老人病”である。近頃私もこの老人病にかかったようだ。ガタガタ言うない!と言いながら、ガタガタ言ってるのだから始末が悪い。
2022年07月24日
諸問題噴出
僧堂はこれから修行して一人前の僧侶になるための、いわば訓練場だから、早い話が未熟者ばかりである。そう言うのを預かって、基礎的訓練から始まって、禅僧になるための万般を教育して行く。これは容易なこっちゃない。しかも24時間全員泊まりがけで何年も預かる。僧堂とはそういう所なのだから、ごちゃごちゃ文句なんか言ってられない。そのお世話係が私の仕事なのだ。故に、常に問題噴出なのである。黙々としてやるだけだ。このお役目を頂いて早や38年になった。お陰様で、問題解決の要領も、次第に訓練されて、自分で言うのも憚れるが、大分、上手になってきた。余程徳のある方なら、もう少しスム~ずに事が運ぶのだろうが、その度に必死に頭を悩ませながら一歩一歩である。困ったときはいつも父と母を思い出す。小さな田舎町で小さな洋品屋を細々と営み、我々4人の子供を育ててくれた。まっその苦労を思えば、今私がぶち当たる苦労なんてチョロイもんだ。へこたれてなんか要られない!親はいつまでも、私を後ろから支え続けてくれる、御法神なのである。
2022年07月23日
頭ぐちゃぐちゃ
僧堂での日々は誠に単調で、ほぼ同じ事の繰返しである。この生活を、既に30数年続けてきた。故にこのリズムで毎日が成り立っている。そこへ、突如として、誠にややこしい話がやって来た。その話とは・・・、と言いたいところだが、今は言えない。言えないならそもそもそんなこと自体語るなよ~っ!だが、まっ、もう少し月日が経ったら、忘れずにご報告させて頂く。私も此処での僧堂生活は38年になる。このリズムでやって来たから、ちょっとやそっとで、変えられない。しかし世の中は持ちつ持たれつで、何処かで様々に繋がっているので、ぐちゃぐちゃに絡んだ糸を丁寧に解いて行かなければならぬ。奥歯にものが挟まったような言い方で恐縮だが、まっ、そういうことなのである。瑞龍寺に住職して間もなくのこと、近くの寺が尼僧堂になった。必然的にその寺に拘わらなければ成らなくなって、はや30数年経った。直接の責任はないのだが、末端のお世話は結局こっちに回ってくる。口とんがらがして、文句を言っても始まらない。仰せつかったら孜孜としてやって行かなければならぬ。まっ、ものは考えようで、いろいろやらせて貰えるのも、私の良い修行になるってわけだ。だから有り難~く、日々ボ~ッとしていたドタマ使って悪戦苦闘中なのである。
2022年07月22日
ついに、パソコンに拒否される
私の頭が酷くトロくなってきたのは既に再三申し上げた通りなのだが、今日、ついにパソコンにも愛想を尽かされてしまい、私の言う事を全く聞いてくれなくなったのだ。事ここに、極まれリである。その後なんとか、なだめすかして、今こうしてブログを書いている次第。大体話の内容もどうでも良いようなつまらないことばかりで、パソコンならずとも、拒否反応を起こしたくなる気持ちはよく解る。と言うわけで今日はこれ以上何を書いてもくだらないことばかりになるので、これにておしま~い。トホッ!
2022年07月21日
講了
以前は解制ギリギリにやっていたのだが、その後の様々な行事と重複し、大忙しになるので、最近はこれを改め数日前に講了行事を済ませてしまう。これで、大変スッキリして良くなった。何事も発想の転換が要る。兎角僧堂行事は従来の習慣や伝統にとらわれやすく、これは一寸不都合だな~、と思っても何となくやり過ごしてしまうことが良くある。こう言う不都合はドンドン改めるべきで、全体を俯瞰してみる目が要る。これは雲水にやれと要っても無理な話で、トップに立つ者の仕事なのである。こう言う工夫が出来るのも常に雲水と一緒に動いているからで、離れたら駄目だ。このようにして今までにもいくつかの不都合を改めることがてきた。まっ、大人数の僧堂ならこんな工夫は無用かも知れないが・・・。
2022年07月19日
頭がボ~ッ!
ついこの間も同様なブログを書いた。更にまたである。しかしこの悲しい現実、書いてる自分もあきれ果てるが、それを読まされる方々も、開いた口がふさがらないだろう。ほぼこの繰り返しなのだから。ほとほとあきれる。さて、この間、野良の「シュウユウ」ちゃんがやって来た。この猫は元々飼い猫だったのが、どういう事情か知らないが、最近、近くの公園に捨てられてしまった。顔立ちを見ればとても可愛がられ大切に飼われていたのが解る。それが突然、人間の都合で捨てられてしまったのである。まあ困り果てたことだろう。寝る小屋もなければ食べる餌もないのだから。近くの公園に居たとき、たまたま通りがかりに隣に居た猫に、「この奥のお寺にお出で!」と言ったら、声を掛けた猫は来ずに、その言葉を脇で聞いた「しゅうゆう」ちゃんが、とことこやって来たのだ。これが人生の分かれ目で、爾来「シュウユウちゃん」はすっかりお寺の飼い猫に収まった。性格も大変良く、根っから野良とは何処か違う。幸せそうにして、来たときより顔立ちも良くなった。人間も動物も全て縁である。時折、ふらっと以前居た公園へ出かけて行く。旧友に挨拶ってとこだろう。
2022年07月18日
老化現象
今ブログを書いたら何と、ほぼ同じ事を2回続けて書いていた。私の頭は半分くらい破壊されているな~っ!と感じた。まっ、こう言うことで甚だしく周囲に迷惑を掛けると言うこともない。自分だけで恥じていればそれで済む老化現象である。問題はこの”ドタマ”を抱えているのだから、やがて周囲に迷惑掛け、自分だけでは済まなくなることだ。そうなったときが問題で、と言ってもどうなるものでもないので、まっ、これ以上グダグダ考えるのを止めておこう。なるようにな~れ!だ。
ふっと、ロンドン
老齢化のせいか、突然遙か昔のことを想い出す。友人のイギリス人がロンドン郊外の家を禅堂風に改装し、定期的に座禅会を主催していたことがあった。そこへ夏に1回出かけていっては、現地の方々に直接坐禅指導していた。前後20年くらい続いたのだが、やがて主催者の志が萎えて、自然消滅した。それに伴いロンドン行きもなくなリ、その友人とも交流が途絶えた。副産物として、ロンドン市内なら大体解るようになった。昨年久しぶりに、親戚の親子を連れて、1週間ほど滞在した。良いのは、8月酷暑の時期でも、実に涼しいことで、良い避暑になる。私は殆ど英語は喋れないが、連れて行った大学生の息子はまあまあ喋れるので、人の手を借りずに全て、自力でやることが出来た。それから比較的治安が良いことである。これも時間帯や場所にも依るのでそれなりの配慮は居るが、それさえ心得ておけば、まあ、ほぼ安全で、スム~ズに滞在できる。酷暑の日本脱出には誠に好都合なのである。しかしそれも近年のヒタヒタ迫る老化には抗しきれず、国内うずくまり状態となった。部屋でジ~ッとしているのが一番だ。トホッ!
2022年07月15日
ふっと、ロンドン
今日ふっとロンドンを想い出した。どうしてなのかよく解らない。思えばもう30数年前から、ちょくちょく夏になるとロンドンへ行っていた。そもそものきっかけは、友人のイギリス人が、ロンドン郊外、ハムステッドに禅堂(普通の部屋を禅堂風にしたもの)を興し、座禅会を始めたからで、その指導のために出かけた。毎夏一週間くらい滞在しては、現地の方々に坐禅指導をしていたのだが、その座禅会も自然消滅、それとともに私のロンドン行きもなくなった。時期は8月の制間で、日本は暑さ真っ盛りだが、現地ロンドンは超涼しく、早朝などは日によるスト~ブが欲しいくらいである。酷暑の日本を脱出して避暑というと聞こえは良いが、これでは避暑を通り越して、まるで初冬であった。まっ、良い気分転換になったが、やがて会員も次第に激減し、座禅会も自然消滅し、私のロンドン行きもなくなった。これは偏に私の指導未熟によるものと思っている。と言うようなわけで、副産物として矢鱈ロンドンに詳しくなった。まるで岐阜市内を歩いているようなもので、あの角のレストランは安くて美味しいとか、こっちのパン屋は手作り感が良いとか・・・。食い物の話ばかりになって恐縮だが、言葉が不自由だから、現地の人との交流は全くなしで、孤独と言えば孤独な旅だった。なんで今頃、こんな遙か昔のことを急に想い出したのか、理由はよく解らない。私も年々老化が進んで、これから先のことよりも、過ぎ去った昔を想い出し、懐かしんでいることが多くなった。まっ、ボツボツ寿命かな~!
2022年07月14日
近頃、頭がパ~ッ、ばっかり
たまに自分のブログを読み返してみると,最近は,頭がパ~ッ、ばっかりで、嫌になっちゃう。まっ、これが本当のところなのだから、何処へも持って行きようもない。自業自得である。角度を変えれば,年齢相応なのである。だったら人様に醜態を晒すな!そう言っておきながら、なお反省の気配もなく、醜態を晒し続けるって、これって一体なんなの?そこで解ったことは、こう言うことの全体が老いるという事なのだ。たまに電車の中などで、突如として小さい子が大きな声で歌を歌ったりすることがある。まっ、これはこれで無邪気で可愛らしくて、周囲は思わず微笑んでしまうのだが、小さい子だから良いので、老いさらばえたヨロヨロ老人がこれをやったら、ピ~ポ~!醜態をさらすな!となる。老いると言う事は万事に見苦しい限りなのである。生前良くお袋が、生き過ぎだわ~ッ!と自らに言っていたが、その言葉が良~く分かる年齢になった。
2022年07月08日
矢鱈、自己嫌悪
最近我がブログを改めて読んでみると、儂も大分耄碌してきたな~っと、つくずく感じて、一層自己嫌悪に陥る。まっ、大きく見れば、年相応とも言えなくもないが、私より高齢で猶バリバリ第一線で活躍されている方も沢山居られる。そういう方々を見るにつけても、私のこの耄碌ぶりにはガックリくる。さりとて、チャット、改められるかと言えば、それは無理だ。この馬鹿頭を抱えながら世に恥をさらして生きるより仕方がない。そう思った途端、一層ガックリ来た。そもそもこう言う文章を書くこと自体、耄碌の始まりなのだ。まっ、このブログ、私が勝手に発信しているもので、人様に多大なご迷惑を掛けると言う事もないので、厚かましく今後も続けて行こうと思っている。日々退化して行く我が「ドタマ」、認知症も目前だな~っと、改めて認知した。
2022年07月07日
ドタマがぼ~っ!
このところの暑さのせいか、はたまた老人になった為か、私の頭が、狂いだした。まっ、早い話が、総体的に「トロク」なったのだ。日頃の所作から、思考力に到るまで、全てがトロイ。解っちゃいるけど止められない。つまりこれが現在の私なのである。日常様々な事柄では、傍に居る雲水が、「間違ってます!」と、すかさず教えてくれる。私の方から、「スカタンやらかしたら,遠慮なく指摘せよ!」と、言ってあるからで、人間こうなっちゃったら、もうお仕舞いだよな~っ。偏に老化による典型的症状である。周りの雲水は迷惑千万だろうが、わざとそうしているわけではないのだから、まっ、これも隠侍の役目と思って辛抱してやってくれ!と申し渡してある。人間80歳にも成れば、大体こんなもんじゃないの!そろそろ「人間」廃業だよな~っ。こう自分で言っておいて、「ガックリ」きた。思うに、例えば商売をしている人などは、1回でもスカタンやらかそうものなら、周囲に相当迷惑を掛けることになる。しかし僧堂では、スカタンやらかしても、利害損得が絡まないから、「一寸、うちの老師も頭が弱ってきたな~っ」で済む。いずれにしても、80歳にも成れば、師家もそろそろ賞味期限切れである。
2022年07月01日
7月、山内お施餓鬼始まる
毎年恒例、山内の施餓鬼会が始まった。酷暑のなか,大汗かきながらの荷担は正直の処、大変だな~っ!しかし毎年恒例の法要だから,嫌もハチの頭もない。雲水は連日、本当にご苦労様。留守番の私はパンツ1枚、部屋でジ~ッと引きこもり。申し訳ない。炎天下、燃えるような暑さなのである。ふっと遙か昔、雲水だった頃を想い出した。衣の上から水をぶっかけられたようなものだった。まっ、お陰様で、今では、それは卒業ってとこ。有り難や有り難や!午後2時から、ロ~タり~,恒例の大般若祈祷会、もう20年くらい前のこと、次々に会員が亡くなり、さすがにこうも続くと気持ち悪くなり、疫病払いのご祈祷をして貰おうと、衆議一決、毎年この時期、恒例の祈祷会(え)になった。うちの寺でのご祈祷以来、ばったり不幸がなくなって,効果抜群ってわけ。祈祷が終わって,それぞれお守りを差し上げ、その小さなお守りを内ポケットに収めて帰られる。
安思(いずくんぞおもわん)
安思撫跡猶酸辛(いずくんぞおもわん、あとをぶすればなおさんしんと)。昔、若かりし頃、一生懸命、当に身命を捨てて修行したな~。人間こう言うことを思うようになったら、ぼつぼつ修行者としては終焉である。激しい修行をしていた頃を懐かしむなんぞ、恥ずかしいことなのだ。そう言いながら、過去を懐かしんでいるのだから、始末が悪い。単純に懐かしむだけなら、百害あって一利なしだ。昔の様々な事柄を一つ一つ総括して、次ぎにどう生かして行くかである。しかし解っちゃいるけど止められない。人間くらい始末の悪いものはない。こう言うとき、ふっと、心の衰えを感ずる瞬間がある。