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2022年09月30日
早や九月
ついこの間、新年を迎えたと思ったら,何んと、もう九月ではないか。月日は百代の家客にして・・・と言うが、これだから人間の一生なんてあっという間だ。周囲を見回すと、あの人も死んだこの人も死んだ、である。嘗て、あの野郎、早く死にゃ~がれ~っ!と思っていたのが、念願通り死んでやれ嬉しやと思っていたら、今度は自分の番になった。エエッ!一寸待ってよ!と思っても待っては呉れない。トホッホッ!まっ、死は避けられないのだから、かくの如く、黙って世の摂理に従うだけである。唯一残せるのは自分の思いを継承してくれる有能な弟子だけである。数は少ないが、そう言う弟子に後を託して、傍に迷惑掛けないように,静かに息を引き取る、これに尽きる。
2022年09月29日
ハチの命日
26日は「ハチ」の命日である。花を飾り、お膳をお供えし,雲水と一緒にお経を上げた。もう死んで十二年経った。今でも元気一杯走り回っていた頃を想い出す。本当に可愛い犬だった。阪神大震災で行き場を失った沢山の犬を保健所の関連機関が神戸の山の中で保護していた。飼い主を求む,と言う新聞記事を見て、雲水と車二台で出かけた。まだ幼かった「ハチ」を貰った。爾来僧堂の雲水達にも可愛がられ、広い境内を走り回っていた。散歩に連れて行くのが私の楽しみになった。決して無駄吠えをせず、静かな僧堂にはふさわし犬だった。お寺に出入りする様々な人たちにも直ぐに慣れて、皆にいつも頭を撫でて貰っていた。十数年経った或る日、急に死んだ。ポカンと心に穴が開いたような空しさで一杯になった。いつも台所の上がりかまちの脇の小屋にいたので、直ぐ近くの場所に埋葬した。信者さんの石屋さんが立派な石をハチのお墓にと、下さった。爾来毎年祥月命日には雲水と共にお経を上げて供養している。
2022年09月25日
何だか力抜ける
どう言う加減なのか解らないが,この所、矢鱈力が抜けて、ボ~ッ!としていることが多い。ついに私も認知症!かと、ガックリきた。早速本を読んだり新聞見たり、いろいろテストしてみたが、そう酷く可笑しい!と言う兆候はない。まっ、自分テストだから、これは第三者にテストして貰わなければ、本当のところは解らない、そう思って知客さんを呼んで、いくつかテストして貰った,結果は別段可笑しくはないというご託宣,ほっと安堵の胸をなで下ろした。もうこの年だから、いつ頭がパ~ッ!になっても不思議はない。時々自分でテストしてみるのだが、つい身びいきになって、これでは正確ではない。いずれにしても人間80歳にも成れば、頭の何処かが狂い出すというのは普通のことで、とっくに私もその危険区域に入っているのだ。嘗て雲水の頃、老齢化した老師が訳の分からないことを言って我々を困らせたことがあった。何と今度は私が同じようなことで雲水を困らせているのだ。まだこう言う自覚がわずかでもあるうちは良い方で、やがてその自覚も失せ、周りの者に迷惑掛けまくって、死んで行くのかな~っ。
2022年09月24日
手入れの出来た庭
京都から遠路来て下さった庭師さん達、約十日間ほど仕事をして昨日無事円成、下山された。何点か日常的手入れについてもご指摘を頂いた。何と清々しい庭になったことか!しかしこんな事を言っては何だが、広い境内にくわえて長い参道両脇の松等々、膨大な(うちとしては)費用に目玉がデングリ返った。しかもこの手入れはエンドレスである。毎年相当な額がす~っと消えて行く。手入れ良く境内を維持して行くというのは本当に大変な事である。まだ何とか、うちの場合はこれが出来るから幸せっちゃ~幸せである。折角綺麗になった境内なのだから、余分な事は考えずに、単純に綺麗ッ!で終わろう。今回はお天気にも恵まれ助かった。年によるとザアザア雨の中、終日カッパ姿で仕事をすることもある。どんな仕事でも、楽なことはないって事だ!
2022年09月23日
剪定作業
毎年、この時期に剪定作業をお願いする。以前は地元業者に頼んでいたのだが、仕事をする人たちの高齢化が進み、お寺のような高い木々の剪定は危険なので、ご辞退致しますってな事になってしまった。困り果てているとき、ある人から京都の庭師さんを紹介して貰い、近年は此処に専らお願いしている。三度の食事のお世話など少々手はかかるが、ズバリ言って仕事のレベルが違うし、実によく働くので、ト~タルで見れば結果安い。庭造り全般に渡って助言を頂き、みるみるうちに変ってきた。矢張庭は京都に限る。庭師としてのレベルが全然違うのだ。お願いしてから今年で四年ほどになるが、全体が素晴らしい庭になってきた。これもご縁で、良い庭師さんに巡り会えて本当に有り難いことである。
2022年09月16日
剪定作業続く
職人さん達が入って既に1週間ぐらい経つが今なお作業は続いている。今日はお陰で曇りだから少しましだが、カンカン照りの中、1日中木によじ登っての剪定作業は、仕事とは言え、大変だな~!と思う。地上の作業の三倍はしんどいだろう。雲水修行も楽じゃないが、そんな比ではない。世間にはいろいろな仕事があるが、よくぞこの道を選んだものだと、頭が下がる。しかしこう言う方々がいなければうちのような寺は大困りになる。「・・籠に乗る人、籠担ぐ人,そのまた草鞋造る人」と言うが、本当に世間はお互い持ちつ持たれつで成り立っているのだな~、と改めて思う。我々お坊さんの修行も楽じゃないが、しかしそれはある一時のもので、最短の者なら、1年もすれば無罪放免となって、ふんぞり返って和尚づらする。しかし職人の世界では,1年や2年では、洟垂れ小僧で、殆ど相手にされない。それは高度な技術を身につけなければならないからだ。本当は我々お坊さんも同様で、二,三年で直ぐに下山するような奴は、お経でも御利益なんかありゃ~しないのだ。植木職人ならお粗末な剪定が直ぐばれて、もう仕事の注文なんか入りゃ~しない。お坊さんだって同様で、お経の文句の上なぞるような稚拙なお経では御利益なんかありゃ~しない。しかしそれは一般の方々では判別しにくいから、それで通ってしまう。それなら、お布施もそのお坊さんの修行年限で差別を付けたら良いのではないかと思うのだが・・・。「・・実は私は二年しか修行しておりませんので、お布施は二割で結構です」・・・てな具合にならないかな~っと思っている。
慚愧
人間誰でも老いると、恥じ入ることが多くなる。「老愚」と言うが、私も齢八十になり、矢鱈恥じ入ることが多くなってきた。それなら世の中から引っ込んで、埋もれていれば良いじゃないかと言う事になる。その通りなのだが、現実世界では直ぐにそうなるわけにも行かない。タイミングが要る。目下、その絶妙のタイミングを見図からっているところである。「老愚」だけには成りたくない。世俗一般と違って、我々の世界では「老いてナンボ」みたいなのがあるので、その辺の兼ね合いが難しいのだ。例えば法要儀式などでも、溌剌とした若者よりも、老いてヨロヨロした老人の方が有り難がれる。ヨロついてナンボなのだ。おかしな話だが、実際そうなのである。しかし私はそうは思わないので、ボツボツ交代時期だな~!と思っている。
2022年09月15日
朋遠方より来たる
旧知の知人親子、わざわざ御挨拶に来て下さった。東京を中心に相当な規模の会を組織していて日々東奔西走の中、わざわざお立ち寄り頂いた。調度お昼時でも有り、近くの食事処で昼食を共にしながら、いろいろお話を拝聴した。我々のような伝統的なお寺と違い、ご自分が一から立ち上げて、今日まで文字通り孤軍奮闘され、築き上げられた会なので、一寸でも気を緩めることは出来ない。常にそう言う緊張感を保っておられる姿には頭が下がる。それに比べると、長~い歴史に寄りかかって安穏としている既成教団の「緩る褌」体質を見ていると、横っ面張り倒したくなる。まっ、そう言う話は脇に置いて、こうして直接お目にかかってお話を伺い、良い刺激を頂いた。有り難い事である。そもそもこれもご縁というもので、30年以上も前、当時毎接心ごとに、伊深に通っていた頃、老師からご紹介を頂き、爾来深い交流を保つことが出来た。広い世間には本当に人のために、懸命に努力されている方が居られる。こう言うのを知っただけでも、どれほど有りがたいことかと思う。
2022年09月12日
ホラ~映画
私は極めて小心者で、ホラ~映画なんか見たら、しばらくは暗闇など一人で歩けない。闇の中からふっと怖~い!幽霊見たいのが現れるのではないかと、ドキドキして、とてもじゃないが、平常心ではいられないのだ。、まだそんな子供染みたことを考えているのかと、笑われそうだが、幾つになっても怖いものは怖いのである。所が人様々で、この怖~いのが大好き!と言う人もいるのだから呆れる。わざわざお金出してそう言う怖~い映画などを見るっつ~のだから、全く理解できない。私の大好きなのは、お笑い、無邪気にゲラゲラ笑うのが大好き。ホラ~なんかわざわざ見なくとも、この現実を直視すれば、心も凍るくらい怖いではないか。
2022年09月09日
人間ドック
早朝より、市内のドック専門病院へ出かけた。近年は、年1回欠かさず受診している。今年も大きな問題もなく無事終了、ほっと安堵の胸をなで下ろした。私も満80歳になった。体のあっちこっち、傷んできて当然、受診前は少々心配していたのだ。結果は万歳三唱ってとこ。お赤飯でも炊いて祝おうかな~っ。緊張の糸が切れて、帰山後は少々横になった。生死を超越したはずの禅僧なら、今更何をガタガタ言ってんだよ~っ!となるわけだが、私は全~然、生死なんか超越していない上、更に超少心者だから、こうなっちゃう。さて話は変わるが、例年の如く昨日より、庭師さんの剪定作業が始まった。これからしばらくは、後片付けや、食事作り等々、雲水は大忙しとなる。みるみるうちに木々が綺麗に調えられてゆくのを眺めていると、嬉しくなる。庭師さん達は雨が降ろうが槍が降ろうが、まるで気にしない。ただ黙々と作業を続けている。何事もプロになればこんなもんだ。
2022年09月05日
人が皆・・・
「人が皆、我れよりえらく見ゆる日は花を買い来て妻と親しむ」。多分啄木の歌だと思うが、また細かい字句は正確ではないとも思うが、まっ、大体こんな風な歌だったと記憶している。世に出て人に知られたいという思いを胸に、悶々とした胸の内を詠んだ歌である。作家なら誰でもこう言う気持ちに成るのだろう。世に知られてナンボ、と言う世界だからで、一向に芽の出ない我が身を省みて、苦しい胸の内を綴ったものだ。まっ、作家や歌人なら当然なことだが、我々の世界はそれとは大分違う。それなら何が我々の価値かと言えば、自分より勝った弟子を輩出することである。自分自身が世に知られるなんて事は全く意味のないことで、一にも二にも、親勝りの弟子を輩出することに尽きる。その為には良き縁に恵まれることである。しかしこの縁というのは、幾ら謀を巡らしても、駄目なものは駄目で、ジ~ッと待ち続けるしかない。そして縁がなければ、ただ死んで行くだけである。虚しい役目だと思うが、修行の世界はそう言うものだ。
2022年09月04日
ふっと、ばあばを思い出す
机に向かってパソコンをいろいろ操作していたら、ふっと、遙か昔、亡くなった、「ばあば」を想い出した。何十年も、うちの台所仕事を一手に引き受け、一人黙々として働いていた。こう言うのも私が老いて来たからだろうか。或いは今、私自身も、孤独に向き合う日々だからなのだろうか。あと何年生きられるかな~。死んだら父ちゃんや母~ちゃんやバ~バに会えるかな~っ。