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2023年04月22日
魂の抜け殻
少々オ~バ~だが、大接心が一つ終わると、翌日は魂の抜け殻のようになる。終日何もせず過ごす。居室の窓から向かいの山の、風にユラユラ揺れる木々をボ~と眺めている。西日に照らされてキラキラ輝いている。こう言う時間が私は好きだ。満81才、ボツボツ賞味期限切れだな~と思う。しかし代わってやってくれる者がいなければ、嫌も応もない、やり続けなければならぬ。トホッ!しかし、ものは考えようで、だからこうして今もなお元気で居れるのである。思うようにならないのが人生。全ては縁と思って、前向きに生きようと思う。私が此処にやって来てから、全ての伽藍を新築して下さった。この恩は永久に忘れない。
あ~面白かった!
タマちゃんが脱走してから小1時間、あ~面白かった~!てな顔をして、戻ってきた。その内またやろ~!という顔付きである。超~心配した私の気持ちなど、まるで分かっていない。馬鹿らしくなって、今後一切どうなろうと儂の知ったことか!で行こうと、肝に銘じた。つらつら思うに、私は何事にも入れ込みすぎる傾向があるのだ。何処かへ行ってしまったと言っても、どうせ広い境内の何処かに居るに違いない。まっ、こんな事で、右往左往すること自体、誠に恥ずかしい次第で、ましやその次第をブログに上げるなんて事が、そもそも超恥ずかしいことなのだ!で、タマちゃん脱走の件は、これにておわ~り!
2023年04月21日
愛猫、タマちゃん
部屋で1匹猫を飼っている。一人っきりではお寂しいでしょうと、ある方が白黒まだら模様の猫を連れてきた。一端飼うと、段々可愛いらしさが増してきくる。日常会話ならほぼ理解するようになった。そうなると益々可愛くなってくる。部屋に閉じ込めてばかりも、窮屈だろうと思い、庭に解き放してみた!喜ぶのなんのって、隠寮の庭を走り回っていた。そのうち、此処の方が自由で広々として開放的だと思ったのか、何処かへ行っちゃった。呼べど叫べど姿も形も無い。暫く声を張り上げて、「タマちゃん~!」と連呼してみたが反応無し。まっ、そっちの方が良いなら、野良になれ~!で終わり。
本日接了
入制大接心も今日は接了。あっという間に終る。さほど暑くも無く、いつもの通りで、無事円成。何も無いのが一番。ところで我が愛猫、「タマ」ちゃん、日中はジ~ッと外の庭を眺めている。鬱蒼と茂る緑一色の庭が殊の外お気に入りのようで、一寸変った猫である。どなたでもそうだと思うが、年を取ると万事に煩わしいことは御免被りたくなる。屹度心の世界が年々縮小して、自己中心になって来るのだろう。出来るだけ変化は避けて、無事無為、これが一番。人間81才にもなると、だいたいこんなもんだ。後はジ~ッと死を待つのみ。どうも淋しい話ばかりになって恐縮だが、人間も旨く出来ていて体も心も徐々に死の道を歩み始めるのだろう。はっと気がついたときが御臨終っつわけ。もう思い残すものは何も無い。お迎えが来たら静かに死んでゆこう。っつわけで、本日はこれにて、おわり~。
2023年04月19日
入制、五日目
15日から始まった大接心も今日は五日目、連日良いお天気に恵まれ、典型的この時期の大接心である。鎌倉からやって来て40年が経った。ふっとこの40年間を振りかえることがある。就任早々、まだこの寺の状況が解らないうちに、早々に、全伽藍を新築しますので、ご苦労さんですが頑張って下さい!だと。そんな話は聞いてませんよ!と言ったが、まあまあ、そういうことになってますので宜しく・・・だと。トホッホッ!こんな理不尽な話を聞いたことが無い!鎌倉に迎えに来てくれた和尚さんは、ただ雲水の面倒を見て下されば結構ですので・・・と言う話だったのだが、これじゃあ話がまるで違うじゃないか!と腹が立ったが、事ここに到っては、鎌倉に帰るわけにも行かず、なし崩しに全伽藍の新築へ向かって走り出した。トホッホッ!なんてもんじゃない。爾来約10年間、当に戦場のような日々だった。今振りかえると、その為にどれほど多くの方々の尊いご支援を頂いたことか。感謝の一語に尽きる。人生には図らずも言うのがある。まっ、私がそう言うご縁に巡り合ったという事である。思えば不思議な縁と有り難いご厚情の数々を頂いたことか。
早や五日目
ついこの間、入制と思っていたら、今日は早や五日目である。春の日差しが輝いて、前の山の木々はソヨともせず、まるで時間が止まったようである。部屋でタマちゃんがドタ~ッと寝転んでいる。こう言う何も無いときが幸せである。40年前、縁あって、殆ど何も知らないこの寺にやって来た。思えばいろいろな事があった。どれだけ多くの人たちからご支援を頂いたか知れぬ。このご恩は私がこれから生涯お返しし続けなければ、死ねない。人間は誰でも何処かで助けられ、支えられ、そのお陰で今こうして居られるのだ。終生この感謝を忘れることは無い。
2023年04月17日
早や三日目
あっという間に、今日は入制大接心も早や三日目となった。陽がさんさんと降り注ぎ、向いの山の木々がユラユラと揺れている。猫のタマちゃんはゴロンと横になっている。お腹を撫でてやると、気持ち良さそうに、のたうち回って、伸びをする。暢気な午後と言えばそうなのだ。部屋でジ~ッとして、窓から外を眺めているのが、私は好きだ。
2023年04月16日
朋、遠方より来たる
今朝は入制大接心二日目、恒例の早朝座禅会があった。それに遙々東京から3人の友人が参加した。勿論昨日やって来て、近くの宿に泊まって、早朝午前3時半、坐禅・講座など、一連の修行を済ませ、帰る前に隠寮で3人にお目にかかった。ご苦労様と言うほかない。この友人とは、20年以上前から、毎夏御嶽山三合目の滝行も続けている。近年は更に九州の断食道場もご一諸している。不思議な縁で繋がる友である。始まりは御嶽山の滝行で、毎年の恒例行事になっている。滝行と言い、断食と言い、いずれも多少修行的な意味も込められた集まりである。ただ集まって一杯飲むというのもそれはそれで楽しいが、ちょびっと、苦痛を伴うものの方が、長続きする。しかもどちらも、後が爽快で、だからもう20年以上も続いているのだ。持つべきものは良き友である。
今朝は早朝午前3時半、朝の勤行から始まり、坐禅、提唱、と続き、午前10時過ぎに一息ついた。東京から3人の友人がやって来て、参加された。午前8時半からの提唱も終わり、一息ついたところで、お目にかかった。この坐禅に参加するため、昨日の夜に岐阜に入って、近くの宿に泊まって、やって来たのである。ご苦労さんと言うほかない。このために費やす労力・費用等、を考えると、生半可では出来ない。この方達とは、夏の御嶽さん滝行や九州断食道場など、何かとご一緒している旧知の仲である。朋遠方より来たるである。
2023年04月14日
雨安居入制
ついこの間、解制でほっと一息ついていたら、明日は雨安居入制、早速1週間入制大接心である。尤も僧堂は修行するのが専らのところだから、ダラダラ制間を過ごすのも嫌なもので、漸く本来の姿に戻ったと言うわけである。自分のことを言うのも憚られる話だが、僧堂生活六十年になる。人生の大半を僧堂で過ごしてきたので、これが当り前だから、大接心が普通で、別にどうっつ事もない。かえって心も落ち着く。体中このように出来上がっており、私の性分にもピッタリしている。ところでいきなり話が変るが、近年、頭の老化が酷い。スカタンばかりでもう人間やめたくなる。そう言う自分に腹が立つが、文句の持って行き場も無い。まっ、大らかに考えれば、年齢相応とも言えるので、気にしない!気にしない!
2023年04月13日
またまた頭がボ~ッ
同じパタ~ンの表題で、申し訳ない。人間80才を過ぎると、賞味期限切れで、こうなる。さりとて人間をやめるわけにも行かない。解っちゃいるけど止められない~っ!のである。今や日常になってきた。これが世間でとなると、仕事や商売の上で甚だ支障を来すので、即刻交代して頂きましょうと言う事になるのだが、修行の世界では、むしろシャキッ!としているよりは、少しボ~ッとしている方が良い境涯ですな~、となる。そう言うようなわけで、私も何とか生きてゆけるっつわけなのである。てなことで言い訳がましく、恥じ入るばかりだ。尤も、お坊さんの世界と行っても、特に専門道場の場合に限る。それでは修行している雲水は堪ったもんじゃないと言う事になるわけだが、修行者は常に自主の精神であらねばならぬので、心配無用。ぶっちゃけ、これが真実なのだから、良いも悪いも無いのだ。
2023年04月12日
絵画展
知人で絵画教室を開いている方が居る。その生徒さん方の作品発表会がある銀行ロビ~で催され、友人と二人で見に行ってきた。それぞれ立派な作品ばかりで、驚かされた!嘗て私とその友人、他に何人かで、その先生にお寺に来て頂き、絵の稽古をしたことがあった。生徒はド素人で、超下手っぴ~ばかりだったが、大変和やかで、楽しい会だった。何年か続いたが、老齢化で自然消滅した。絵は小さな子供が無心に地面に描いたりするように、誰でも旨い下手は別にして、童心に返り、楽しいものだ。近頃はそう言う前向きな姿勢も途絶えてしまい、日~暮りゃ~腹減るで、無為に過ごすことが多くなってしまった。
2023年04月10日
老齢化
最近は老齢化で、一日無為に過ごす、何てことがしばしばある。遙か昔のことになるが、嘗て僧堂で仕えていた師匠は、毎日のように寸暇を惜しんで、何処かへ出掛けていた。山奥の道場で、鬱蒼とした森に囲まれ、こんな極楽は無いと思っていたので、不思議で仕方なかった。後年自分が師家になって、隠寮に籠もることが多くなってから、改めて当時のことを振りかえり、今なお、不思議だな~っと思う。人は性格も育った環境もいろいろだから、一概に善し悪しは言えないが、何だか小さい頃の抑圧を一気に取り返すような感じである。私は部屋から向いの山の鬱蒼とした緑を眺めているのが一番心癒やされる。人でごみごみしているところへわざわざ出掛けるなんて、真っ平である。単純に善し悪しは言えないが、人間は誰でも常に過去を背負って生きてるんだな~と思う。誰でもそうなのだろうが、老人になるとゴミゴミしたところより、シ~ンと静まりかえって、人っ子ひとり居ないところが一番癒やされる。
2023年04月09日
花まつり
本来は今日なのだが、1ケ月遅れで、5月8日に行なわれる。と言っても、朝の勤行に引き続き、略式で済ませている。まっ、一応花御堂に甘酒をたっぷり満たして、私と雲水だけだが、小さな仏さんに甘茶をかけて、これで終わり。雲水の頃、門前の子供が数人やって来て、花御堂の屋根に一杯摘んできた花を貼り付け、文字通り花御堂にしてくれた。近年はどうしているのか聞いたことは無いが、多分こう言う風習も途絶えただろうと思う。もっと昔、私が小さかった頃、花祭りに近くのお寺に行って、1升ビンに甘茶を入れて貰い、持ち帰ってグビグビ飲んだものである。まだ田舎ではこう言う風習も残っているかも知れないが、岐阜市内では殆ど無くなってしまった。もっとも花祭り(降誕会)も、お寺の幼稚園などでは、小規模ながら行なわれているようである。だんだんこう言う風習も無くなってしまい、淋しい限りである。
2023年04月06日
開 講
10時半、山内・会下和尚等々、10人くらい集まって、雨安居開講。 以前は出齋もあったが、人少で準備も出来ないので、勘弁して貰って、なし。無事終わった。外はどんより曇って今にも雨が降ってきそうな気配。向いの山の木々はソヨともせず、まるで時が止まったようである。調度40才でこの寺にやって来て、今年80才になった。月日は百代の家客にして・・・で、あっという間であった。近頃は少々老化現象があっちこっちに出て来て、ボツボツ儂も賞味期限切れかな~と、思っている。しかし代わって貰いたいが、僧堂師家は近頃まるで人気が無い。一昔前なら、この役目は大変名誉なもので、恐れながらも有り難く拝命したものだが、あっさり、お断り~っ!てなことである。時代も変れば変るものだと、開いた口が塞がらない。まっ、志しを持った雲水に巡り会わない不幸ということである。この世に生れて、生涯雲水と修行の日々を嬉々としてやる野郎なんぞ一人も居ない。好きとか嫌いとかでは無く、もっと深~いところで、有り難く拝命するのである。この深~い!ものが無ければ、誰がこのお役目を引き受けるものか!
2023年04月05日
明日は開講
入制は4月15日なのだが、開講は少し早めに済ませて置いて、15日からの入制大接心にスム~ズに入れるようにしている。よって明日は午前10時半から開講である。山内や近隣の会下が出頭してくれる。こう言う段取も、試行錯誤の結果、このやり方に落ち着いた。以前は入制当日が開講だった。しかしこれでは肝心の大接心にスム~ズに入れず支障を来す。何事も修行第一である。ふっと遙か昔、瑞龍寺に入寺した当時のことをいろいろ想い出した。現在のような形に落ち着くまで随分試行錯誤した。僧堂の規矩は如何に雲水に良い修行をして貰うかである。まっ、20人30人というような大人数の僧堂なら、また別のやり方があるのかも知れないが、うちのような小人数僧堂の場合は、このやり方がベストである。あらゆる行事を修行第一で見直した。その結果である。
2023年04月04日
整理整頓
私の最も苦手なことは身の回りの整理整頓である。これは小さい頃からで、だから筋金入りって事。80過ぎても、 とっ散らかって、恥ずかしくて他人様には見せられない。良く親からこれを指摘され、お兄ちゃんを見習いなさいと、言われ続けてきた。この悪癖は今なお直らず、我ながら恥じ入るばかりである。バラバラに整頓してるんだ!などと屁理屈を言って、澄ましている始末である。まっ、さすがに最近は整頓しておかないと、自分が困るだけだと漸く気がついて、以前よりは大分ましになったのだが。四月に入り、間もなく15日より入制大接心である。ダラダラと、飽き飽きした制間も漸く終わり、ビシッと引き締めてゆこう。僧堂は矢張、大接心が一番良い。ふっと身の回りを見渡すと、修行の先輩の方々はみんな遷化されて、老いぼれの自分だけが残った。いつまで頑張れるか解らないが、未熟な私を育てて下さった諸先輩方の恩に報いるためにも、もう一踏ん張りしなければ、あの世へ行ったとき、頭の下げっぱなしになる。
2023年04月02日
はや、四月
月日は百代の家客にして行き交う人もまた旅人なり・・・、ついこの間、新年を迎えたと思っていたら、はや四月、新年度の始まりである。ボ~ッとしていたら、この始末。加齢と共に、この傾向は益々酷くなってきた。この調子では、はっと気がついたら、ご臨終となる。事実私の周辺の方々は、ふと気がついたら皆死んでしまった。次は自分の番である。加齢と共にこの感じは益々進化して、目の前に死が待っている。縁起でも無いことを言うな!と思われるだろうが、しかし事実なのだからしょうが無いのだ。近々、知人の葬儀に出掛けることになった。嫌でも応でもこう言うことになる。俺も次の番だな~!と。お坊さんの良いところは、いつ死のうが、たった、ひとりきりだから、未練は何も残らないことだ。まっ、今すぐという話になると、可愛がっている猫のタマちゃんが悲しむな~っつ、くらいである。身の回りはスッキリしていて、未練が残ることは、これっぽっちも無い!万事サバサバしている。