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2024年02月29日
寝忘れを忘れて・・・
ゆっくり休める楽しみな寝忘れを忘れて、通常通り午前三時半起床、トホッ!この時間を有効活用、机の上を整理整頓。まっ、こう言う間違いも、良いもんだ!負け惜しみ。と言うわけで今こうしてブログを書いている。これは明らかに老化現象である。誰でも通って行く道、ガタガタしない。と言いながらガクッときている。矛盾だらけ、82才。世間だったらこんな状態ではとてもやってられないが、僧堂だから、周りに支えられ、ヨロヨロしながら何とか務めている。しかし、ぼつぼつ引退だな~っ!この二文字が目の前をチラチラ。トホッホッ!なんて、言ってられないっつうの!
2024年02月26日
ドタマがボ~ッ!
近頃、頭がボ~ッと言う事が良くある。老化現象の典型である。こりゃ~まずいことになったぞ!と思うが、ではそうすりゃ~良いんだ。どうにもならない。トホッ!まっ、俺もボツボツ終わりだな~っ!冷ややかな一陣の風がス~ッと通り抜ける。此処で幾らガタガタしても何も始まらないのだ。トホッ!なんて言ってる場合じゃあないつうの!トホッホッ!人間誰でも通って行く道なのだから、成るようになれ!てな調子でやり過ごそうと腹を決めた。
2024年02月25日
終日、雨シトシト
冷え冷えとした一日だった。こう言う時は部屋に引きこもる。近頃医師の診断で、少々認知症気味との宣告、ガクッ!ときた。エエ~ッ!俺の人生もこれで終わりかよ~っ!目の前真っ暗、82才。シトシト冷たい雨が降っている。まさに今日のような心境。「絶望」の二文字が心に焼き付いた。兄は私より三つ上だが、今尚、第一線で活躍、一家を懸命に支えている。その点私の日々は何の苦労もなく、暢気に暮らしているから罰が当ったのだ。トホッホッ!
終日、しとしと雨が降り・・・
私のドタマは間もなく認知症になりますと、お医者さんから冷ややかに告げられた。ガ~ン!当に今日の天気と同様なのである。トホッ!まっ今のところはこんな暢気なこと言ってられるが、その内、笑ってられなくなるのだ。年相応という言葉があるが、御年82才では、一寸早い。いや大分早い。孤独生活の私では、この先、惨めな日々がやって来て、ボロボロの晩年と成る。いっそ、首くくったろか、ふっとそう言う考えがよぎる。決してオ~バ~に言ってるわけではないのだ。近々、お医者さんの面談があり、親族立ち会いで説明がある。いずれにしても、この流れは変らないわけで、もう私の人生はこれで終わり、82才、皆様ともこれでお別れ、サヨウナラ。
2024年02月24日
ワラビ餅
この時期、恒例のお菓子である.岐阜で一番のお菓子屋さんが門前にある。発売ともに直ぐ売り切れるので、毎年予約しておく。そのワラビ餅が届いた。皆でパクパク、あっと言うまに食べた。美味しいったらありゃ~しない、勿論雲水にも平等に分けて、食べた。毎年の風物詩みたいなものである。ところで話は急に変るが、愛猫の「タマちゃん」机の傍ら、専用の猫布団に丸くなって、すやすや寝息をたてている。幸せそうだ。
2024年02月23日
太極拳
午後、中野尼の指導で、皆で、太極拳。まっ、体の硬いのが少々難点だが、小1時間みっちりやる。特に私などは平生、部屋でじっとしていることが多いので、ヒイヒイ言いながら、若い衆に負けぬよう、相当頑張った。お陰で気分まで爽やかになった。時折、典座へんのお手伝いに来て呉れるので、そう言うとき、今日のように皆で太極拳をやるのだ。誰でもそうだが特に老齢化すると、部屋でじっとしていることが多く、体がコチコチになる。適度な運動に成って、気分まで爽やかになる。ところで・・・、とここまで書いてきて、次ぎ何を書くつもりだったか忘れてしまった。トホッホッ。老化の典型。故にトホッホッ!なんて言ってる場合じゃ無いのだ。老人になると体も頭も老化して、旨く作動しなようになる。まっ、仕方の無いことであるが、ボツボツ師家も年貢の納め時と、脳の奥の方からささやきが聞こえる。
2024年02月22日
全体的にパ~ッ!
こうなってから大分経った。その内回復して元通りになるという希望的観測は木っ端微塵に砕かれ、今は茫然自失状態。まっ、大らかに考えれば、年齢相応とも言えるので、神経質にならず、こんなもんだぜ!と思うようにしている満82才の私。人間誰でも通る道なのだから。今日午後から市民病院、脳神経内科で精密検診がある。これでどの程度なのか判定が下されるわけだ。もう今からドキドキ胸は高鳴っている。断頭台に佇む気分である。まっ、幾ら神経質になっても、現実の結果は変らないので、何も思わないように、装っているっつ、わけだ。トホッホッ。
2024年02月21日
終日、のびた君
制間に成って、たちまちブッタルンで、伸びきった。こりゃ~まずい!と、心を入れ替えて、私が書道の先生になって、雲水に習字の時間を設けた。お手本は、私の30年間ほど続けてきたときの書道の先生のお手本が山ほどあるので、それをチョイット拝借して、約2時間、ジャンジャン書かせる。自分は下手っぴ~でも、人の批評は誠に旨いので、舌先三寸で、雲水の目をくらまして、やっているっつわけである。書道は数書かせることが一番、約2時間、たっぷり書きまくる。これで筆慣れるというわけである。お坊さんは避けて通ることは出来ないのだから。遙か昔、私が瑞龍寺に来たとき、ある信者さんから墨蹟を頼まれた。その字の酷いったらありゃ~しないのだ。爾来高名な書道家について稽古に励み、約40年、どうにか見られるくらいには成った。それを教訓に、うちの雲水には必ず書道の時間を設けている。
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2024年02月19日
午後は書道
生憎の雨、そこで午後は私が先生になって書道の稽古、2時間ほどみっちりやった。お坊さんは何れ寺に帰れば、否応なく筆を持たなければならない。ナメクジがノタクッタようなち稚拙な字を書いているようでは恥さらしである。そこで雨降りは外作務がないので、書道の時間である。私がこの寺にやって来たとき、稚拙な筆文字にあきれ返って、近くの高名な書道の先生について稽古を約20年ほどやった。その時の成果を今、雲水に還元してるっつわけだ。エッヘン!少々ふんぞり返って高名な先生気取りなのである。トホッ!
2024年02月16日
脳の退化
近頃脳の退化、著しいので、市民病院で精密に診断して貰った。詳しい診断結果は6日後なのだが、
、そう深刻な状態ではなさそうなので、ほっと、安堵の胸を撫で下ろした。人間誰でも通って行く道、あまり深刻に考えないようにしている。雲水達に迷惑がかかってもいけないと思い、念のため調べて貰ったというわけ。今年誕生日が来ると満82才成る。そろそろ年貢の納め時かな~と思うのだが、代わってやってくれる者がいないので、仕方なく不完全ながら続けている。とは言っても、適当な時期が来たら、さっさと退散である。
老化現象、ヒシヒシ
最近特に,我が身の老化を感ずる。あまり思いたくは無いが、嫌でも応でも老化を目の前に突きつけられて,茫然自失、と言うことがちょくちょくある。誰でも老人になればこうなる。トホッホッ、なんて暢気なこと言ってられない。それならわざわざ思いたくないようなことは思わなければ良いのにと思うのだが、これが不思議なことで、避けて通ることは出来ないのである。辺りには人っ子ひとり居ない淋し~い場所を通り抜けるとき、成るべく見ないようにして通り過ぎようと思っても、不思議に見てしまうのと、似ている。怖いもの見たさなのかも知れぬ。兎も角老いを日々目の前に突き付けられて居るのだ。ではどうするホナン!幾ら考えてもコレッという良い考えは浮かんでこないのだ。トホッ!
2024年02月15日
ボ~ッと今朝も・・・
老齢化と言う事もあるのだろうが、近頃机に向かっていても、しばしばボ~ッとしていることが良くある。困ったこんだ!御年82才。まっ、僧堂生活は世間と違って、ノ~ビリしているから,こんな老人でも務まる。私の体が僧堂生活にピタッとはまって、一挙手一等足、どっぷり浸っている。これが生き馬の目を抜くような世間では到底務まらないとと思うが、全て僧堂ペ~スなのである。私にとって一番馴染む。あと何年、雲水と一緒に修行できるのか解らないが、息引き取る瞬間までこうして雲水と一緒に居たいと思っている。
あ、と言う間に・・
早や、月半ば、光陰矢のごとし。ボ~ッとしている間に、猛スピ~ドで日々過ぎて行く。この調子では、はっ!と気がついたら,片足棺桶に突っ込んでいたと言う事になる。人間の一生なんて夢の間だ。茫然自失、よちよち歩きの赤ん坊が,気がついたら、しわくちゃ爺なのである。だからと言って対策法は無い。ただ日々ボ~ッと佇むばかり。トホッホッ!なんて言ってる場合じゃ無いつ~の!この自問自答の繰り返しだ。最近特に、何だか知らないが、人生のはかなさばかりが頭に浮かぶ。困ったこんだ!机の前の壁に目をやると、もう30年くらい前、友人と岐阜の山奥へ出掛け、とうとうと流れる大河の淵に坐って、スケッチした、下手っぴ~な絵が掛けてある。下手っぴ~でも自分で描いた絵は、その日のことが克明に甦リ、懐かしさで一杯になる。絵は写真とは違って、2時間くらい眼前の風景と向き合った記憶が脳味噌に克明に刻まれるのだ。
2024年02月14日
机の上は・・・
私の悪い癖で、机の上は書物や資料で山のように積み上げられ、うっかり触るとダダダダ~!と崩れて、後始末に困る。だらしのなさは今始まったことでは無い。御幼少の頃からで,いつもお袋に叱られていた。もう80才を過ぎたというのに、このていたらくなのだ。恥ずかしいたら、ありゃ~しない。人間誰でも持って生れたものは、身について、容易なことでは離れない。あまり綺麗に整理整頓された机では、勉強する気が起きないのだ。てな具合に都合の良い言い訳をしては、今なお、ごちゃごちゃの机に向かっているっつうわけ。
クルクルパ~!
近頃老化によると思われる「クルクルパ~ッ!」現象に悩まされている。覚えたそばから忘れる。これは典型的老化現象である。まっ、誰でも通って行く道なので、酷く落ち込むっつうこともないが、常にこれに悩まされので、矢張落ち込む。まっ、こう言う話は当人にとっては重大なことだが、周りの者はどうでも良いことで、こんな話は聞きたくない。話は変るが、三日後、市民病院へ行く.これまたクルクルパ~ッ、またクルクルパ~ッが此処でも出てくるっつうわけ。脳の精密検査である。幾ら検査してみてもパ~ッが良くなるわけでも無し、個人的にはあまり気乗りしないのだが、お医者さんはしきりに勧めるので、逆らって心証を害してもいけないと思い、検査を受けることにした。故に結果などどうでも良いのだ。どうせ良いわけないのだから。半ばやけっぱち。トホッホツ!
寝忘れを忘れて・・・
通常の時間に眼がパッチリ、丁度良いので机の上を綺麗に片付け、今はこうしてブログを書いている。早朝に起きるのは長年のことですっかり身についているから、寝忘れを忘れたっつわけだ。私も今年は82歳になる。丁度40才の誕生日の前日に入寺したので、在錫42年、お陰様で病気ひとつせずこれまで何とかやって来た。有り難いことだ。いろいろな方々に支えられ、今がある。あと何年続けられるか解らないが、体の動く限りは頑張りたいと思っている。家族を持たず、両親も既に他界し、たった独りぽっちになった。僧堂修行が私の生きがいである。
2024年02月10日
ふっと50年前を想い出し・・・
遙か昔、私がまだ十代の頃、3月半ば、横浜の洪福寺の和尚さんに連れられて、遙々岐阜の山奥、正眼寺梶浦逸外にお目にかかるため、横浜駅を夜,出立した。コトコチの三等車に坐って延々8時間、早朝の岐阜駅に着いた。閑散とした駅ビルの二階食堂で、ペコペコのお腹を満たし、一息付いた。早朝と言う事もあって周囲には人っ子ひとり居らず、閑散としていた。人口密集地で暮らしていた私にとって、ほぼ無人駅に、一層、底冷えが染みた。このときの様子は今までにも何回か書いてきたが、此処から私の禅修行は始まったのだ。いわば私の原点なのである。今でも時折岐阜駅を利用するときは、ふっこの時の光景が眼前に浮かぶ。ご一緒して下さった洪福寺の和尚さんも父もとっくに他界してしまった。
万事、脳タリン
ゆったり日々過ごしているせいか、「脳足りん」になってきた。普段でも八リンのところ、更にそれが加速され、「完パ~」になった。こうなったら、腹をくくって、パ~ッ!に成りきろう。パ~ッ!パ~ッ!の連呼で、読んでる方々も嫌になってくるだろうからもうこの辺で止めておく。「頭パ~ッ、中味スカスカ、脳足りん」 トホッホッ!
2024年02月09日
制間ボケ
2月制間に成って、ブッタルンで、伸びきった。ボ~ッと日々過ごしている。こんな事、他人様にはとても恥ずかしくて言えないのだが、私はバカだから言っちゃう。表題通りボ~ッ!で日々過ごしている。従って同時にドタマもイカレポンチ!になった。
2024年02月08日
お葬式
この所とんと葬儀が無かったが、今日、久し振りに有って、雲水と二人で出かけてきた。参詣者も少なく、所謂、家族葬だった。こじんまりした葬儀だったが、親族の方々の心の籠もったお詣りで大変良かった。この地方では葬儀の規模も大きく、入口には献花が幾つも並んで・・・、だったのだが家族葬ばやりで、こじんまり行なうのが、今どきの風になった。「この世に生きる価値のない人などいない。人は誰でも、誰かの重荷を軽くしてあげることが出来る」チャ~ルデイケンズ「愛する心は真の知恵である」より。
生きる価値
「この世に生きる価値の無い人などいない。人は誰でも、誰かの重荷を軽くしてあげることができるからだ。」チャ~ルズディケンズ、愛する心は真の知恵である、より。個人的には今までそう言う気持ちになったことなど、一度も無かったが、沢山の人の中には、あるのかも知れない。遙か昔、18歳の時、大学受験勉強中、突然、こんな人性に意味は無い!と思って、出家した。両親も兄弟もみな、勉強のしすぎで、頭が可笑しくなったのだと思ったそうだ。受験参考書を全て取り上げて、遊びに行ってらっしゃいと母は言った。遙か数十年も前のことである。今振り返って考えても、どうして私がそう言う気持ちになったのか解らない。突如として大地から沸き上がるようにそう思った。今では懐かしく当時のことを想い出すのだが、お陰様でその後心変わりすることも無く、現在に到っている。人生にはこう言うこともあるのだ。
2024年02月07日
終日無為
終日ノ~ンビリとか、あくびのし過ぎで顎が疲れたとか、ぶったるんでる日々を象徴するような事柄ばかりで、人に会わせる顔が無い!トホッホッ。まっこれは謙遜もあるので、幾らか、さっぴ~て、考えて欲しい。嘗て、孤独から逃れるように、何時も人に囲まれていないとやってられない人がいたが、ああ言う神経は全く理解できない。そもそも道を間違えたのでは無いのかと思ってしまう。居室の窓から向いの山の木立が、ユラユラ揺れている。ジ~ッと飽きずに眺めている。至極の時である。そもそも人間嫌いなのだ。今も傍らに猫のタマちゃんが、丸くなってスヤスヤ寝息を建ている。その姿を見ているだけで幸せになる。
終日ノ~ビリ
普段でもあまりやることが無いところへ持ってきて制間に入って更に加速、終日あくびの連発で、あごが疲れた。居室の窓から向いの山を眺めながら、ボ~ッと終日過ごしている。午前中火災保険の人が更新手続きにやって来た。はんこを押して完了。今、傍らで愛猫のタマちゃんが、丸くなって寝ている。まっ、これが何時ものペ~ス。タマチャンも、この空気を読んで、スヤスヤ寝息をたてている。時間が止まったままだ。向いの山の木立が風にユラユラ揺れている、午後3時40分。師匠は一時もじっとして居れない性分で、常に動き回わっておられたが、その反動か、私はじ~っと動かず置物人生。机に向かっているときが一番好きだ。
2024年02月04日
終日ノ~ビリ
2月制間になって、ノ~ンビリ、快適な日々である。春の日差しが部屋に差し込み、傍らで猫のたまちゃんがゴロリと横になっている。境内コトリトモせず無音、向いの山の木々が微かに揺れて、キラキラ輝いている。何事も無し。私はこう言う時間が大好きだ。嘗て知人で、後ろから突き動かされるように、日々何処かへ出掛けまくっていた人を知っているが、ああ言う神経は私には全く理解できない。まっ、人嫌い、っつ事もあるのかも知れないが、静かに部屋から向いの山の木立を眺めている。至福の時である。このブログを書いている傍らで、猫のタマちゃんが、ゴロリと横になって、気持ちよさそうにスヤスヤ寝息を立てている。その幸せそうな背中を見ていると、こっちまで幸せになる。無事是れ貴人と言う言葉があるが、何事もなし、これが一番の幸せだ。
2024年02月03日
制間ボケ
、終日殆ど何もせず、ただボ~ッと過ごすことが多くなった。こりゃ~まずい!認知へ駄々走り!である。さりとて他の僧堂のようにひっきりなしに来客があるということももない。それなら益々やることが一杯あって、大忙しだろう!と思うだろうが、さにあらず、何もすることは無いのだ。自分で語録や祖録などを読んで、頭つかえ!と言うことになるのだが、私は馬鹿だから、何もせずただボ~ッと無為に日を過ごしている。まっ、老齢化、御年82才と言う事もあるのだろうが、兎も角ぶったるんでるのだ。南ソ!しっかりせ~や!と自らを叱っている。トホッ!
2024年02月02日
2月制間
冬期制中も無事に終わって、ほっと一息付いている。制間のゆったり感を、じっくり味わい、のんべんだらりんと過ごしている。まっ英気を養っているわけだ。私は生来ナマケモノだから、この制間が大好きだ。私の机の上は様々な資料や書物で堆くなっている。綺麗に整理整頓された机はどうも苦手だ。この方が私の気持ちにぴったりで、居心地が良い。というように適当な言い訳を作って、要は片付けが苦手で、生来だらしないのである。制間と言う言葉を聞いただけで、もう箍が緩んで、このような次第。窓越しに、相向いの山の木々がユラユラ揺れている。それをじっと眺めている。
間違えて起きた
今朝は寝忘れだったのだが、間違えてと言うか、自然にいつもの通り目がパッチリ、で起きてしまった。この時間を有効活用、散らかった机の上を整理整頓した。小さい頃から、私の悪い癖で机の上はとっ散らかって、書類の山。しかし長年これでやって来たので、下手に整理整頓すると、却って訳わからんようになる。つまりバラバラに整頓しているわけなのだ。まっ言い訳はそのくらいにして、もう少し見栄えの良いように整頓。二月制間になって、一寸、気が楽になった。僧堂は殆ど同じ事の繰り返しなのだが、それでも制間になると、わずかだが、気分が違う。ところで、私は今年82才になった。近頃少々、体力気力共に、衰えを感ずる。もうボツボツ引退だな~っ!と思うのだが、代わってやってくれる者がいないので、嫌も応も無い、やらざるを得ないのだ。まっ、ものは考えようで、何時までも仕事があって、それに尻叩かれて、頑張れるほど有り難いことは無い!