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2024年06月28日
雨シトシト
終日シトシト雨が降り続いている。日中なのにもう夕方のように薄暗い。陰気くさいったらありゃ~しない。気分まで落ち込む。ガラス越しの向いの山の木もピタッ!と止まっている。まっ、落ち着いていて、良い感じだな~!とも思えるが、景色も心の現れだから、気分も沈む。終日机に向かっていろいろな作業。個人的にはパッ!と晴れ上がった日よりは、こう言う薄暗い沈んだ時が好きだ。どうも言ってることが矛盾だらけである。トホッ!まっ、早い話がどっちでも良いっつこと。まだ午後三時半だっつうのに、辺り一面薄暗い。居室の窓から板塀越しに聖侍寮がみえる。向いの山の木々が被さるように生い茂っている。時が止まったようだ。
2024年06月21日
遙か昔のことを・・・
これも老齢化と言う事なのかも知れないが、ふっと、遙か昔のことが甦ってくることがある。だからどうっつ事もないのだが、矢張、老いなのだろうと思う。若いうちは前のことばかりに気が行っていたのが、気がついたら日々後ろ向きなのだ。淋しくなった。老いを実感した瞬間である。だからどうなんだ!と言うほどの事でもないのだが・・・。ボ~ッと机の前のガラス窓から、向いの山の鬱蒼とした茂みが微かに揺れているのが見える。日に照らされてキラキラ輝いている。何時もの眺めなのだが、不思議に癒やされる。
歯の定期検診
毎月一回、歯の定期検診をして貰っている。今日がその日で、特別問題なしで、帰ってきた。老人になれば誰でも歯はあっちこっち傷んでくる。転ばぬ先の杖で、毎月何も無くとも歯を検診して貰っておくと、酷くならないうちに処置して貰えるので良い。これは友人の勧めで始めたことである。お陰で常に口の中は快適っつわけ。満82才、沢庵でもバリバリである。まっ、今は歯の話だが、人生全て良き友人に巡り会えることが財産である。この反対だと酷いことになる。それも半分は自分の責任なのだが。ところで話は変るが、老人特有の認知症気味で困っている。取り敢えずは僧堂の中では問題無いようにフォロ~してくれているのだが、対外的なことになると・・・。だから予防線を張って、必ず古参の雲水に立ち会って貰うことにしている。誰でも老いればこうなるわけだから。まだこう言う自覚があるうちは良いのだが・・・。
2024年06月18日
夏末四日目
もうこの大接心をどのくらい繰りかえしたことか知れない。丁度40才で、この道場にきて、今82才になるから、42年間勤めたことになる。随分長くやってきたもんだ。ほぼ同じ事の繰り返しだから、世間の仕事と違って,大変と言う事はない。また周りに迷惑を掛けるということも無い。フッと気がついたら、もう42年間も経ったのだ。身近な実感としては、立ち居振りまいが、少々もたもたするかな~って~ところ。お陰様で大病もせず、こうして続けていられることが何より有り難い。ボツボツ後継者に引き継ぐ年齢なのだが、これが旨くいかないのだ。今一番の悩みなのである。誰でも喜んでこの役目を引き受ける者などいない。さまざまな縁で、今こうしているわけなので、みんなそう言う気持ちでやって貰えば良いのだが。かくなる上は棺桶片足突っ込むまでやり抜かなければならないのかな~と、フッと淋しい気持ちになる。
老化現象
今に始まった話じゃ無いが、このところ特に心身の衰えを痛感する。大らかに考えれば年相応って事なのだが、日々心身の衰えを目の当たりにすると,一寸やばいんじゃない!と思う。しかしだからどうすりゃ~良いんだよ~っ!となるわけだが、どうにもならない。トホッホッなのである。大らかに考えれば人間誰でも通って行く道、ガタガタすることは無い!と思いながらも、このままじゃまずいよな~っ!となる。この葛藤の繰り返しの日々なのである。暗~く心も落ち込む。ふっと目をやると、窓越しに向いの山が見える。朝からシトシトと雨が降り続き、昼間なのに薄暗く、さらに心も落ち込んでくる。見る物は全て心の表れと言うが本当にそうだ。心の中の様子をこうして書いて行くと、さらに暗さが増して、愈々真っ暗闇となってきた。トホッ!フッと部屋に飾ってある自作の絵を見る。もう10年ほど前に山奥へスケッチに出掛けたヘタッピ~な絵が、自慢げに掛けてある。遙か昔の絵なのだが、当時の事が鮮やかに甦って、ほんの少し救われた気持ちになった。
2024年06月17日
ドン雲リ
朝から一日中重たい雲が垂れ込め、実に鬱陶しい日である。降るなら降る、晴れるなら晴れる、どっちかにしろ!と叫びたくなる。窓から向いの山の木々を眺めても、ソヨともしない。まるで時が止まったようだ。傍らでタマちゃんが、専用の布団に丸くなってすやすや寝ている。シ~ンと静まりかえって,物音ひとつしない。ふっと目を机の前にやると、「有由有縁」と書いた紙が立てかけてある。これは川端康成さんが良く好んで揮毫されたそうで、この世の巡り会いの不思議さを表した言葉である。本当にそうだな~と改めて思った。
どんより重たい雲が垂れ込めて・・・
私の気分もこの通りで、今日は酷く重た~い。まっ大らかに考えれば、人間の心は日々移ろう。カラッとするときもあれば、ドン雲りもあるって~事。気にしない!気にしない!それにしても今日の天気はなんだ!この重たさ。鬱陶しいたらありゃ~しない。これじゃ~心も重たくなるわけだ。トホッ!何か明るいことでも考えて、シャキッとしたいな~!今傍らで、猫のタマちゃんが一生懸命毛繕いをしている.私が机に向かうと、どこからか、スッとやって来て、何時もこうする。猫は一言も言わないが、何処かで私の心の内を察しているような気がする。もう一度振り返って様子を見たら、もうとっくに丸くなって寝ていた。
老化により弱認知症
と言う私の診断。本音では少しもそん事、思っても居ないのだが、少し自分から離れて、冷静に観察するとこうなる。で、少々控えめに弱をつけてみたわけだ。まっ、人間82歳にもなると、そう思いたくなくとも、そうなって来る。で、どうする?と言われてもどうしようも無い。ただ呆然と佇むばかりである。トホッホッなのである。ガタガタすることは無い!ふっとめを目をやると、ガラス越しに、向かいの山の木々が微かに揺れている。飽きずにジ~ッと眺めている。生々しい人間世界のとなど何処かへすっ飛んで、無心になる。
2024年06月16日
日々是好日
雨の降る日、晴れの日と、お天気はいろいろだが、晴れて良し、曇りても良し富士の山である。我が心何時も晴天なりである。とこう言うと、何よりですな~と言われるわけだが、まっ、考えてもごらんなさい、そんな事、あるわけないじゃ~ないですか!晴れて良し降っても良しの心境になるよう努力するって事。日々好日なんて本当に思っている奴がいたら、脳天気のただのバカッつう事である。修行もそうだが、悪戦苦闘、地獄を這い回る連続の日々に、一条の光を見るということである。禅というと、直ぐ無念無想と言うイメ~ジだが、それは誰かが勝手に作ったイメ~ジで、そんなのが手に入ると思っているとしたら、とんでもない間違いである。人間が生きると言う事はそういうことなのである。地獄の底に、微かな一条の光を感じると言うことなのである。それを、日々是好日と言うのである。
バカ街道まっしぐら
ひとえに老齢化によるものだが、これが日常になってきた。もう簡単には止められない。この流れに従って行くほか無いのだ。そう思うと、目の前真っ暗闇、「絶望」の二字が踊っている。最近どうも暗~い話ばっかりで、なら、書かなければ良いのにと思うのだが、心の奥の方にいる悪魔がささやく。止めちゃ駄目!と。こう、ささやかれると、不思議に素直になって、ハイ!解りました、となるのだから、始末が悪いのである。まっ、言ってみれば、これらは総じて「老化」のなせるワザで、従って「老醜」の二文字が躍ると言う事になる。トホッホツ!なんて言ってる場合じゃ無いっつうの!まっ、これが世俗一般だったら、ハイ!それまで~よ~、で一巻の終わりとなるのだが、僧堂という特殊環境だから、何とか保っているわけだ。まだ若かりし修行中、「バカになれ!」と何時も言われていた。そう言われ続けているうちに、どうも近頃はそのバカが本格的になってきたようだ。
2024年06月10日
終日無為
老齢化という事もあるのかも知れないが、終日無為、と言う日が多くなった。無為といってもただバカみたいに、ボ~ッとしているわけではないが、寸暇を惜しんで何かするというような事は無くなった。齢、82才である。人にもよるが、一寸もじっとして居れないタイプの方と言うのがある。私はそもそもジ~ッとして部屋に引き籠もるタイプなのである。これは小さい頃からで、良くお袋に、たまには外へ出て遊んでらっしゃい!と言われてたものだ。持って生れた性格なのである。年を取ってこれが益々偏ってきたのだ。修行にはもってこいのタイプで、こういう風だからお坊さんになったのかも知れない。
バカ丸出し
自分でこう言ってるのだから、その通り間違いなしである。一つには老齢化がある。間もなく満82才になる。近頃はその程度の年齢でバカになるのは速すぎるのだが、こう言うのも人それぞれで、私の場合は外見は普通に見えて、実は中味グチャグチャなのである。これで厄介なのは、自らこう言って置いて、実は本心ではそう思っていないところである。このギャップが問題なのである。さらに、家族なら憚らずズバリこの点を指摘出来るが、師匠と弟子の関係では、ズバリ遠慮無く指摘するのは憚られる。故に、困ったことになってきたな~と思いつつ、何とも手の打ちようが無いのであ、まだ自分でこう言ってるうちは良い方で、その内自分ではまともだと思いこみ、実は中味グチャグチャってえのが一番困る。間もなくそうなるのが見えるのだ。トホッホッ!なのだ。
2024年06月08日
終日ボ~ッ!
あんまりブログに書くには憚れることだが、私はバカだから書いちゃうのだ。終日廊下にジ~ッと座って庭とそれに繋がる山を眺めて過ごした。これじゃ~まるでバカじゃん。私が仕えた師匠は一時もじっとしては居られないタイプの方だった。一方、弟子の私はバカ丸出しの、この有り様なのである。まっ、こう言うのは人それぞれで、どちらが良いとか悪いとかは言えない。私は、基本的に孤独大好き人間なのだ。机の前の窓越し向いの山の木々が風にユラユラ揺れている。それを終日飽きずに眺めている。こう言うときが私は一番好きだ。
日々、脳味噌の衰え
度々で恐縮だが、特に近年私の脳味噌の衰えったらありゃ~しない。とてもじゃないがやってられない。と言っても他に方法は無い。このバカ頭を抱えながら、生きて行くほかないのだ。トホッホツ!なんて言ってる場合じゃないつうの!と言いながら止めときゃ良いのに、度々これを書いて、自分で落ち込んでいるのだから、始末が悪い。解っちゃいるけど止められない!ス~ダラ節である。まっ、このブログなども衰えの傾斜を何とか遅らせようと必死にもがいているザマなのだ。こう言うのも人様々で、まっ、結局やってもやらなくとも、多分結果は同じ事だと思うが、これが私の悪あがきなのである。
2024年06月07日
認知症が目の前をチラチラ
大らかに考えれば年相応と言う事で、今更ガタガタ言うことは無いのだが、さりとてこの事実を無視するわけにも行かず、茫然自失って訳だ。まっ、こう言う自覚があるうちはまだましで、その内この自覚が無くなってくるといよいよ本格的。ふっと目を、机の前の壁にやると、づっと以前、友人と二人で長良川の上流域、山奥の白鳥町へ出掛け、2時間ほど掛けて描いた絵が自慢げに掛けてある。2時間ほど掛け、川淵にしゃがみ込んで、白山をバックに悠々と流れる長良川をスケッチした。絵が自慢げに掛けてある。言うまでもなく、ヘタッピ~な絵なのだが、毎日眺めていても、不思議に、そこそこじゃ無いの!と思っている。この奇妙な現象のお陰で、大いに満足しているわけだ。ふっと、目を転じて、窓越しに向いの山の木々がユラユラ揺れている。
2024年06月06日
認知症
最近特に、この「認知症」の三文字が私の目の前に躍っている。じゃかまし~っ!と、振り払うのだが、しつこく離れず、食らいついているのだ。トホッ!なんて暢気なこと言ってられない。まっ、大らかに考えれば、年相応ってな訳である。だが、少なからず周りに迷惑掛けるので、何とか防御策を考えなければならぬ。しかし、妙案は浮かばない。ただ漫然となすがままに流されて行かなければならぬかと思うと、茫然自失である。まっ、このブログなども、何とかこの悪魔と戦って、少しでも先延ばしできないかと思いながら、無駄な抵抗を試みているわけである。しかし努力の甲斐も無く、日々我が身の衰えを実感する。トホッホッ!
2024年06月04日
有由有縁
生きているかぎり、人は何がおこるかわからず、誰に出会うかもわからない。時、所、人、物と、この世でのめぐりあいが人生の少なからぬ部分を占める。偶然のようであるが、起こってみれば必然のことである。これは近代日本文学を代表する作家である川端康成が好んで良く揮毫した言葉だと言われている。また、この有由有縁、は最近知人の画家、土屋禮一さんの個展会場入口に掲げられた言葉でもある。良い言葉だな~!と思って、メモして置いた。良き人との出会いのお陰で今の私があるのだから。
2024年06月03日
終日部屋籠もり
どんより曇り空、今日は終日部屋に籠もって、机を整頓したり、ボ~ッと向いの山の木立を眺めたりで過ごした。心身のオーバーホールである。外はどんより曇り空だが、私の心は晴れ晴れ。まっ、こう言うのは人に依るのかも知れないが、孤独大好き人間、私の心の中は、本日晴天なりである。故に僧堂生活は私にピッタリなのである。此処で他人のことを言うのは憚れることだが、常に孤独から逃れることばかり考えていた人が居た。まっ、生い立ちに問題有りだったのだが、思えば可哀想な人だった。他人のことはさて置き、私がこういう風にボ~ッとして無為に過ごしても、僧堂はしっかり回っている。最近は裏山歩きをご無沙汰していたが、明日から復活しよう。