1994年2月 正念相続
 
 修行時代後輩で、非常に真面目な男がいた。彼はある動機があって、自ら発心し、出家したのである。固く心に決めての修行ぶりは、他を抜きんで、目を見張るものがあった。きっと彼は将来立派な禅僧になるに違いないと、大いに期待した。
 ところがどうした事だろう。二年、三年経つうちに、あれ程までの精進努力は、すっかり陰を潜め、其の堕落ぶりは目に余るほどになった。余りの急激な変化を奇異に感じ、一夜彼を呼んで其の理由を問いただした。最初に或る動機があって発心したと書いたが、実はその時初めて、彼の出家に至る経緯を聞くことになった。
 彼は或る中堅企業に勤める、ごく平凡なサラリーマンだった。何年か勤めるうちに年ごろにも成り、やがて心に深く思う人が出来、お互いに将来を誓いあうようになった。周囲の祝福も受け、結婚という段取りとなった。後は其の日を待つばかりである。人生で最も晴れやかで、楽しい日々であったに違いない。
 ところが突如として其の夢は、果なくも破れてしまった。相手の女性が病魔に侵され、あっという間に死んでしまったのだ。何という不幸だろうか。それからというもの、彼の人生は一転して、暗闇のなかに落ちていった。何をしても虚しく、寂寞たる思いは癒されることはなかった。
 やがてそんな中から、一条の光りが見えてきた。よし出家してお坊さんになって、一生修行の世界に生きよう。そう心に固く決め、道場に入門することになった。
 入門してからはどんな辛いことがあっても、そんなものは何でもなかった。寝ても醒めても、死んだ人のことが頭から離れることはない。忘れようとしても幻のように浮かんできて、忘れることが出来ない。後から押される様にして、懸命に修行した。
 しかし二年三年と経つうちに、気持ちが萎えてきた。一時も頭から離れ無かった人は、段段遠くの存在になって、今度は何とか心を奮い立たせて、思い出そうと努めても、益々心は薄れていくばかりである。そんな心の変化に連動するように、修行に対する深い志も次第になくなり、後は惰性の日々を送るという状態になってしまったのである。 一晩掛かって懇々と説得したが、遂に彼の心は戻る事無く、数年後には修行を折って、普通の寺の和尚になってしまった。あれ程までの決意は、一体何処へ行ってしまったのだうか。何処に問題があったのだろうか。
 人間誰だって、そんなに何時までも、悲し思いを抱えておれるものでは無い。去るものは日々に疎しで、これは決して不誠実だからというのではない。当たり前のことである.。人生には楽しい事、悲しい事、色々あるが、それらが全て白紙に墨書するように、永久に消えないとしたら、こんな苦痛はない。其れは丁度空中に指で文字を書くようなものだ。書いている側から、跡形もなくどんどん消えてゆく。にも拘らず、彼は過ぎ去った思 い出ばかりに寄り掛かって、情に流され、今を忘れていたのである。
 過去の幻影からは新しいものは生まれない。肝心の今の修行から目を反らして、修行そのものの中から、自分の努力で、新しい出家の志を打ち建てる事が出来なかった彼の修行は、矢張り間違っていたと考えざるをえない。
 例え命懸けの決心でも、其れは一回こっきりのもので、精々一年持てば上等である。その一年の修行の間に、次の新しい発心を、今度は自分の力で獲得していかなければ、次の年の修行は無いのだと、思わなければいけない。
  何年も修行を積み上げてゆくのは、譬えると、両手に一杯砂を握って、少しずつ落としてゆくようなものだ。下に円形の砂山が出来る。初め小さいうちは、一寸落とせば、目に見えて大きくなってゆく、一センチや二センチ嵩上げするのは何でもない事である。しかしこれを繰り返してゆくとやがて、多少落とした位では、其の大半は周辺に流れ、何時まで経っても、一センチの嵩上げらす、容易に は出来なくなる。其れは支えている基盤が大きくなったからである。
 大きくなればなるほど、膨大な量を捨てていかなければ成長はないのだ。修行を積み重ね、長い年月継続してゆくというのは、丁度これと同じ事である。一年よりは二年、二年よりは三年が尊いのである。十年は一年を十、積み重ねたのではない。何百倍もの努力の結晶の上に、十年の修行が成就するのだ。倦まず弛まず、これを繰り返してゆく中で、鍛えられ成長してゆくのである。
 

 

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