2004年6月 伽藍の復興

 
 近頃寄付のお願いだという客が頻繁にやって来る。お付き合いとは言うもののまたかという感じである。そんな折も折り、知り合いの和尚さんが寄付をお願いしますとやって来た。聞くと最近中国で達磨大使が亡くなったお墓の場所が判明したので、中国政府が中心になってそこに大規模な一大寺院を建立するというのである。その為の寄付を広く禅寺へ呼びかけていると言うのだ。そこでささやかながら貧者の一灯を捧げたのであるが、その時私はこういう話をした。
 中国では寺院の復興というとすぐ日本へ資金提供を言ってくる。確かに日本とは深い関係の所ばかりであるから、それなりに復興のお手伝いをさせて頂くのは悪いことではない。しかし幾ら伽藍を作っても今の中国には修行したお坊さんが皆無であり、その上布教活動は禁じられている。そんなところに幾ら寺を建てても、何の意味もないではないか。いくら立派な伽藍を作っても、観光客を誘致する為のただの見せ物というのでは本末転倒も甚だしい。まず立派な僧侶が居て、その人のために相応しい伽藍が整備されるというのが順序である。

 三十年前、日中国交回復がなされ、間もなく我々日本の臨済宗寺院の寄付で臨済寺が出来、さらに趙州の観音院も復興された。しかしその後これらの寺がどうなったかと言えば、「建物が傷んできたからまた寄付をお願いします」と言ってきている。自力で維持する気概は全くなく、そんな寺なら潰した方が良い。つまり真の宗教家は現在の中国には居ないと言うことなのだ。そんな所にやれ達磨さんだ祖師だと言って幾ら伽藍を作ってみても意味はない。それよりどうせお金を使うなら中国の若い僧を日本に留学させ、さらに専門道場で修行して貰うための費用を我々で負担してはどうか。人材を育てるのが先決で、そうすれば寺はその人の力で建つものではないだろうかと進言した。
 十年ほど前のことになるが、十数人の仲間と中国の臨済寺参拝に出かけた。その折り近くに有名な趙州の観音院があるはずだから是非行ってみたいとガイドに頼むと、そんな寺は知らないと言う。そんなはずはない、一寸前に来た知人がお詣りしたと聞いていたので必ず在るはずだ。そんな押し問答をしていると、その遣り取りを聞いていたバスの運転手が、その寺なら私が知っていますと連れて行ってくれた。バスで三十分ほどのところで、周囲はまるで工事現場の板塀の様な粗末な塀が巡らされていた。中に入ってみると三十数メートルの趙州塔が聳え建っていた。草ぼうぼう荒れ放題の境内には幾つかの石碑が薙ぎ倒され転がっていた。此処があの天下に名を馳せた趙州大和尚の寺なのかと思ったら涙が出るほど悲しくなった。灼熱の太陽が照りつける中、塔の前で懇ろに誦経した。さてこれで引き上げようと帰り掛けたとき、隅っこの方にあった牛小屋の様な建物から二人の老人が頻りに手招きをしている。何だろうと近づいてみると、その粗末な建物の入り口の部屋には質素な祭壇が設けられ、お釈迦様の画像が掛けられてある。次の部屋には木と縄で出来たこれまた粗末なベットが置いてあった。通訳を介して尋ねると、この二人の老人は中国が共産主義の国になる以前、この観音院のお坊さんだったというのだ。強制的に農民 にさせられていたのだが、近年ようやく個人の信仰が認められるようになり、寺に戻ってきたのだそうだ。そこで皆でお経を上げお詣りし、僅かだがお金を奉納した。するとせめてもの接待とでもいうように、二人の老人は急いで茶を沸かし在り合わせの茶碗や、丼までも総動員して皆に茶を振る舞ってくれた。ちょうど暑い最中で皆喉が渇いていたせいもあり、このお茶の美味しかったことといったらなかった。入り口辺には猫の額ほどの痩 せた土地に菜っぱ類が植えられていたが、 荒れ放題の境内や、その生活振りから察して殆ど無収入に近いと思われた。赤銅色の顔に刻まれた深い皺を見ながら、日々の暮らしはどうなのだろうかと思い心が痛んだ。

 それから数年が経ち、我々日本の臨済宗寺院の寄進でこの観音堂が立派に再建された。そこで再び旅行団を組み、趙州観音院参拝に出かけた。訪れてみると今度は余りにも立派な伽藍に成っていたので吃驚した。十数人のお坊さんがぞろぞろと出てきて我々を接待してくれた。そこで数年前会った二人の老僧を想い出し消息を尋ねた。ところがそんな人が居りましたかな、といった具合でこの人達は 以前のことは何もご存じない様子である。 落胆したと共に私はあの二人の老僧こそが観音院を守って行くに相応しい人ではないのだろうかと思われてならなかった。宗旨を守り信仰に生きる者にこそ伽藍を守ってゆく価値があるのだ。あの二人の老僧を顧みない現在の観音院に虚しさを感じずにはいられなかった。

 

 

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