三十年前、日中国交回復がなされ、間もなく我々日本の臨済宗寺院の寄付で臨済寺が出来、さらに趙州の観音院も復興された。しかしその後これらの寺がどうなったかと言えば、「建物が傷んできたからまた寄付をお願いします」と言ってきている。自力で維持する気概は全くなく、そんな寺なら潰した方が良い。つまり真の宗教家は現在の中国には居ないと言うことなのだ。そんな所にやれ達磨さんだ祖師だと言って幾ら伽藍を作ってみても意味はない。それよりどうせお金を使うなら中国の若い僧を日本に留学させ、さらに専門道場で修行して貰うための費用を我々で負担してはどうか。人材を育てるのが先決で、そうすれば寺はその人の力で建つものではないだろうかと進言した。
十年ほど前のことになるが、十数人の仲間と中国の臨済寺参拝に出かけた。その折り近くに有名な趙州の観音院があるはずだから是非行ってみたいとガイドに頼むと、そんな寺は知らないと言う。そんなはずはない、一寸前に来た知人がお詣りしたと聞いていたので必ず在るはずだ。そんな押し問答をしていると、その遣り取りを聞いていたバスの運転手が、その寺なら私が知っていますと連れて行ってくれた。バスで三十分ほどのところで、周囲はまるで工事現場の板塀の様な粗末な塀が巡らされていた。中に入ってみると三十数メートルの趙州塔が聳え建っていた。草ぼうぼう荒れ放題の境内には幾つかの石碑が薙ぎ倒され転がっていた。此処があの天下に名を馳せた趙州大和尚の寺なのかと思ったら涙が出るほど悲しくなった。灼熱の太陽が照りつける中、塔の前で懇ろに誦経した。さてこれで引き上げようと帰り掛けたとき、隅っこの方にあった牛小屋の様な建物から二人の老人が頻りに手招きをしている。何だろうと近づいてみると、その粗末な建物の入り口の部屋には質素な祭壇が設けられ、お釈迦様の画像が掛けられてある。次の部屋には木と縄で出来たこれまた粗末なベットが置いてあった。通訳を介して尋ねると、この二人の老人は中国が共産主義の国になる以前、この観音院のお坊さんだったというのだ。強制的に農民 にさせられていたのだが、近年ようやく個人の信仰が認められるようになり、寺に戻ってきたのだそうだ。そこで皆でお経を上げお詣りし、僅かだがお金を奉納した。するとせめてもの接待とでもいうように、二人の老人は急いで茶を沸かし在り合わせの茶碗や、丼までも総動員して皆に茶を振る舞ってくれた。ちょうど暑い最中で皆喉が渇いていたせいもあり、このお茶の美味しかったことといったらなかった。入り口辺には猫の額ほどの痩 せた土地に菜っぱ類が植えられていたが、 荒れ放題の境内や、その生活振りから察して殆ど無収入に近いと思われた。赤銅色の顔に刻まれた深い皺を見ながら、日々の暮らしはどうなのだろうかと思い心が痛んだ。
|