現代を知ること
 
 

 江戸期の人々の死生観について、様々な記録からみると、現在の我々とは相当異なっていたことが分かる。幕末の人々は死をいたって気軽なものとみなしていたようである。当時の欧米人の証言によれば、葬列は陽気な気分がみなぎっていたと言う。また死罪に処せられた女でさえ平然としていたと書いている。日本人は火事で焼け出されてもニコニコしていると評判だったようだ。それが立派だというのではなく、また善し悪しの問題ではなく、現代人の我々にはもはや無縁となった、近代以前の心性の問題なのである。これは一つには、背景に当時のライフサイクルがある。十七世紀の平均余命は三十歳そこそこ、十八世紀で三十代半ば、十九世紀に入り三十代後半である。また幼児死亡率の高さは出生時十人の中、六歳に達するのが七人以下、十六歳まで生存できるのは五,六人に過ぎなかった。平気寿命が短かっただけではなく、人間いつ死ぬか分からないというのが当時の実感だったのである。人は植物が枯死するように、従容として死を迎えるというのが普通だった。「いつ死んでもかまわない」と思っていて、あっけらかんと明るいものでさえあったようだ。

 こんな話が残っている。大阪天満の商人、高木善助は文政十一年商用で鹿児島へ赴く途中、肥後の松橋から薩摩の阿久根まで船に乗った。船もボロで漕ぎ手も年寄り、船出をして間もなく風にわかに吹き来たり、たちまち裏帆になり、船頭慌てて舵を取ったのだが、舵取りを間違え、あわや覆える寸前、ようよう凌ぐありさまであった。何とか天草の御所の浦に船を入れた。皆口々に船頭を恨んで罵ったところ、船頭は平気な顔で、「もう二寸も傾いていたら今頃はお客も我らも水底にいただろう」。あまりのことに乗客は皆笑ったと書いている。この船頭、命をヘチマの皮とも思わぬ男だったのである。また博多の「にわか」精神など、突き抜けた明るさとすごみさえ感じられる。「考えてみると、私どもの一生は南京花火のようなもので……シュシュシュポンポンポン……ウワアーイと言うだけの話」と言った風で、徹底的に明るい虚無感、あっけんからんとした極楽とんぼぶりなのである。勿論江戸人といえども好んで死にたい者はいない。だが生への執着という点で、いちじるしく淡泊だったのである。
  次ぎに家業について、「北越雪譜」の著者、鈴木牧之は、自伝でこのように記している。この人、家業の質屋を継ぎ、父の訓戒を守って何の遊びもせず、一生働きに働いて死んだ。常に家中を片付けておかないと気がすまず、一日中高麗鼠のように働き通し、使用人にも口やかましく、お陰で家業は順調、だがその一生、面白いことがあったのかというのが気がかりである。牧之は文人で「北越雪譜」のほか、「秋山紀行」、他に著作は発句、小説など十六種、全二十五巻に及ぶ。しかし彼は文業を余業と見なし、本業を疎かにしたことはない。馬琴も「商売の余力にする風流こそ誠の風流と言うべきで、あなたのようなお方は実に希である」と絶賛している。  おのれの分限たる家業を日々怠りなく務めている満足感があったればこそ、文筆は家業だけでは得られない世界の広がりを持つものだったのである。他にも手仕事がやたら好きで、特に箱をこしらえるのが得意で、重箱・帳箱等々、百八十の箱物を作ったという。このほか手張りの傘も一度に十本くらい張り、漆塗り、家中破損したところは直ぐに修理した。これがすべて楽しみだったというのだからあきれる。   こういう話を聞くと、当時の人にとって仕事は決して労役ではなく、生命活動そのものだったのだと言うことが自然に納得される。働くのは天の人間に与えた使命だと言う感覚、おのれの職分に励むのは、人が人として命を全うすることだったのだ。
  また結婚についてだが、今日とはずいぶん違う。結婚の第一義は、家業を受け継いで手落ちなく経営して行く上での協力者というところにあった。経営メンバーの採用である以上、採用されてのち解雇されることがあるのは当然で、牧之の二人の妻はふさわしからぬと離縁、しかし離縁された嫁の方はたまったものではない。今なら人権無視で大問題になるが、家は社会的責任を示すものであり、一端入っても当人の勤めぶりが家に合わぬとあれば転職を迫られるのである。だから江戸期の離婚率は相当高かった。しかし離婚の結果が不幸であるとは限らない。その後幸せな再婚生活を送っている例はいくらでもある。庶民の場合でも、一度の結婚でおのれの運命を決めてしまうのではなく、いくつか試みて最も合った家に落ち着くというのが賢明で自主的な生き方だったようである。また嫁というものは三くだり半の離縁状を持たされ、泣く泣く実家に返される哀れなイメージが浮かぶが、必ずしもそうではない。この三くだり半、別れた以上妻の再婚に異議はないというもので、むしろ妻の請求によって交わされるものであった。一方的な離婚は希で、関係者協議の上、妻側の主張や権利は十分顧慮されていたのである。

 西洋的愛はいったん神に誓った以上、永久恋愛であらねばならぬと言う考え方だが、江戸人は結婚は現実的必要に迫られた一種の協業関係で、愛の幻想などに煩わされることのない、徹底したリアリストだった。しかし夫婦になっているのはたまさかとでも言いたげな考え方には、心の底が冷え冷えとするわびしさを感じる。このように感じるのはどうしたことだろうか。それこそが、まさにわれわれが近代を知ったと言うことにほかならないのである。
 
 

 

 

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