1994年9月 ばあば
 
 小さい頃から我が家には、ばあやがいた。掃除、洗濯、炊事は勿論のこと、我々子供の世話、その外畑仕事に至るまて、裏方のことは一手に引き受けてやっていた。ばあやを我々は 『ばあば』と呼んでいた。
 さてばあばの体型はと言えば、ずんぐりむっくり、色は真っ黒け、まるで豆タンクの様。母は商売に精を出していたから日常のことは殆ど、ばあばが母親代わり、口喧しく小言を言いながらも我々の世話をしてくれた。
 何時も夕食は、我が家六人食卓を囲み、其の日有ったことなどを賑やかに話ながらであった。商売をしていたので、そういう時は何時もばあばが一人で店番であった。やがて食事が終わり母はお店へ行き、我々もそれぞれの部屋に行く。食べ終わった後の汚れた食卓の一番左端の隅っこで、ばあばは何時も一人ポツンと食事をしていた。ご飯にお茶をかけ、好物の大根の味噌漬だけで、さっさっと済ませるのが常だった。
 ばあばはいたって丈夫で医者に掛かることなど全く無かったが、唯一の治療は御灸であった。背中に数ヶ所、十円玉程も有るような大きな痕の残るのをしていた。此れが又厄介で、ばあばが御灸から帰ると、翌日から巨大な御灸の痕に、真っ黒な膏薬を貼る。すると翌日べったりと膿が出てくるから、それを毎日張り替えて遣らなければ成らない。何時もは小言の多いばあばも、この時ばかりは愛想 が良かった。それでも「うーきったねえー」などとぶつぶつ文句を言いながら、膏薬の張替えをよく遣ってあげたものである。
 六十を少し過ぎた頃の或る日、突然両足に激痛が走った。救急車で近くの病院に担ぎ込み、直ちに入院。その後検査の結果、心臓に欠陥があって、血液の流れが両足の付け根で止まってしまったのだという事が分かった。このままでは、場合によって両足を切断しなければ成らないという。
 もう生きられ無いのではないかと言う程状態は悪化してしまった。私も急遽、道場から一日暇を貰い、最後のお別れの積もりで見舞った。何年ぶりかで会ったばあばは、げっそり痩せ衰え目つきが座って恐ろしい形相をしていた。背筋が寒くなった。
 ところが半年、一年と治療を続けるうちに、徐々に回復の兆が見えはじめ、危機的状態も脱した。やがてその病院を退院し、我が家に戻って療養する事になった。私はその時も一度暇を貰って会いに帰った。殆ど寝た切りの状態だったが、顔の色艶も良く、最近自分で作ったという手毯を呉れた。芯は糸をぐるぐる巻きにして作り、周りは赤や緑、黄色、紫など色とりどりの糸で奇麗に模様がされて いる。それは本当に美しい手毯だった。
 それから半年ほど経った十月、突然ばあばが死んだと言う報せを受けた。死ぬ一週間程前、急に新潟の故郷に帰りたいと言いだし、この病状では無理だと言う周囲の説得を振り切る様にして、一人帰って行ったという事だった。
 悲しい時が過ぎ去り、修行に追われる日々が続いて、私の心の中からいつしか、ばあばの死も、思い出さえもすっかり消えてしまっていた。時が移り、私は道場の中の役目として三応寮に入っていた。此れは老師の世話役として、部屋の掃除、洗濯、食事の用意、来客の応対や墨蹟の手伝いなど、一切のことをするのである。天手古舞の忙しさで、私のような要領の悪いものは大変である。丁度其の日もそんな大忙しの日で、ほっと一息いれ、寮舎の台所の片隅で、遅い夕食を一人ぽつ んととっていた。
 冷えた麦飯に氷水のような味噌汁、沢庵を噛りながらも、すきっ腹にはそれがこの上なく有り難かった。丁度その時ふっと心をよぎるものがあった。全く忘れてしまっていたばあばの顔が突然眼裏に浮かんだのだ。「そうだここの所でばあばは生きていたんだ。」 二十数年間のばあばの姿が怒涛の如く私の心のなかに押し寄せて来た。
 ばあばはこの世に生まれ何にも良いことも無く、暖かい愛情で包んでくれる家族の一人も持たずに、孤独の中で死んで行ったのだ。何故生きている間に、ここの所を分かって、優しい言葉の一つもかけてあげられなかったのだろうか。
 今私の手元にあの美しい手毯はない。修行中、荷物の片隅に追いやられ其のうちゴミの様にして捨ててしまったのだろう。もう偲ぶべきよすがは何一つ残っていない。
 人はこの目で見、この耳で聞き、この心で感じるという。しかし本当の意味での目や耳や心を持たなければ、実は何も見えていないし、真実の声も聞こえてはこないのだ。そして心は寒々として虚ろだ。生きている間に、ばあばの心の内のひとかけらも受け止めることが出来なかった私は、何と未熟であったかと、今悔いても悔やみきれないのである。
 

 

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