1994年8月 傘をさす
 
 私が未だ道場で修行していた、或る年のこと。其の日は大きな法要があって、寺中大忙し、まだ跡片ずけも済んでいない午後、一人の老婦人がやってきた。「老師に面会をお願いしたい」という。失礼ながら初めてお目にかかる方なので、少々事情を伺った。
 話に依れば四十年以上も前、まだ娘時代のこと、父親は軍人だったそうで、当時、まだ若かりし逸外老師はちょくちょくお宅にお邪魔をしては、父親と大変親しくしていたという。そんな折り、お茶を運んだりお給仕をしながら、老師から色々な話を聞かせて貰ったそうである。
 時は移り、娘さんはY先生と結婚、やがて戦争が始まり、国中大混乱となった。ご主人の大学復帰もまま成らず、まだ小さかった娘二人を抱え、生活は苦しくなるばかり、ほとほと困り果てたのである。彼女によれば、こう言う局面に陥ると大学の先生と言うのはトンと頼りにならぬそうで、どうしたものか思案の末、ふと娘 時代に会った逸外老師を思い出した。困った時の神頼みで、「そうだ、老師ならこう言う時、どうしたら良いか教えて呉れるに違いない」そう思って早速訪ねた。
 そこで、一部始終、事の次第を話し、「どうしたら良いでしょうか」と相談した。すると老師は言下に「雨が降ったら傘をさせば良いんだよ」と言われたそうである。彼女は成る程そうか、それならばと、帰って直ぐ家を畳んで田舎へ移り、此れからは百姓をして暮らそうと決めた。老師の言葉と百姓生活が、何処でどう結び付いたのか理由は定かでないが、きっと此の一言はそれ迄の迷いを断ち切るきっ掛けになったのだろう。
 慣れぬ百姓仕事で、初めはどうしたら良いのか皆目分からなかったそうだが、田舎の人は親切なもので、見るから素人じみた手付きに、見兼ねたのだろう。色々教えて呉れたそうで、こうして徐々に農作業も慣れ、一家四人汗水流して畑を耕し、何とか飢えを凌ぐ事ができたと言うのである。
 やがて終戦。少しずつ世の中も落ち着き、大学も再開され、ご主人はT大教授として復職、生活も何とか安定してきた。老師の「雨が降ったら傘をさせ」 の一言が本当に良いご指示だったと、当時を振り替えって懐かしそうに言って居られた。
 此の様にして奥さんにお目に掛かってから数年後、私は道場を下がり、鎌倉の小庵の住職となった。そうした或る日、ひょっこりくだんの奥さんが寺に訪ねてこられた。
 話を聞けば、Y先生は癌に侵され、余命幾許も無いという、誠に深刻なものであった。そこで 「是非家に来て、貴方の般若心経を聞かせてやって欲しい」と言うのである。お見舞いに行って、其の枕元でお経というのも如何なものかと思ったが、先方のたっての希望なので、そのとおり従う事にした。
 久しぶりに先生にお目に掛かると、見るからに衰弱して、骨と皮ばかりに成っていた。余りの変わり様に驚かされた。お経は何も仏さんばかりに詠むものでもなかろう。私のお経で幾許かの安心が得られるのなら、と思い精魂籠めて詠んだ。
 それから五カ月後に先生は亡くなられ、又その一年後、今度は奥さんが後を追うように亡くなられた。
 こんな事があって以来私の頭の中には何時も「雨が降ったら傘をさせ」と言う老師の言葉が忘れられずに残った。
 我々の修行は公案禅と言い、入門と同時に夫々問題が与えられる。其の答えを拈定工夫しながら、丁度梯子を一段一段昇る様に修行を積んで行くのである。此れが中々困難を極める。其の答えは従来の組み立て方では絶対に通ら無いので、新たな世界を構築していかなければ、活路は無い。大きな壁に打ち当たって進むも退くも成らぬ、絶体絶命のピンチにたたされる。
 そういう挫折と苦しみの中から、やがて自分の浅はかな考えでは、到底此の壁を破ることは出来ないと言う事が分かってくる。それ迄の思案や工夫は所詮虚しい妄想に過ぎなかったのだと、身に染みて感ぜられるようになる。
  計らいを捨て、我慢を捨て、捨てられるものは悉く捨て切って、もう何もない。何もないから当然答えも無くなって、すっからかんになる。常識で言えば、もう此処で終わりだが、実は此処からが本当の始まりなので、内側に何にも無くなってさっぱりするから、あらゆるものがすっと入って来るのである。こう成って初めて本当の声が聞こえて来る。
 雨が降れば誰もが傘をさす。だが一度はずぶ濡れになって、葛藤の果てまで行き尽くし、そこから再び、ごく自然に傘がさせる様に成らなければいけないのである。降り続く雨を眺めながら、ふとこんな事が頭を巡った。
 

 

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