こころの杖
 
1994年11月 到らざれば千般恨み未だ消ぜず
 
 道場へ入門して来る者の大半は寺の子弟である。元来お坊さんは出家するというが、実は出家していない出家なのである。今日寺に生まれ、育ったといっても、お経や坐禅をはじめ掃除、洗濯、炊事など修行の基礎的なことは殆ど知らない。何年か前に「赤信号皆で渡れば恐くない」という流行語があったが、自分一人だけなら知らなくて青くなるところも、知らない者同士だから呑気なものだ。
 例えば、雑巾など生まれてこのかた一度も使ったことはない。そこで懇切丁寧に教えることから始まる。雑巾は良くすすぎ、しっかり絞ってから二つにたたみ裏表を使い、汚れたら裏返して又裏表を使う。この様にして一枚の雑巾を四通りに使い再びすすぐ。これを二枚同時にやれば一回のすすぎで合計八面使えるわけである。汚れたら裏返すということを繰り返しながら広い板の間を拭いてゆく。 こんな常識的なこと一つ取ってもまるで幼稚園児に教えるように手取り足取り教えなければ出来ない。黙って見過ごせば汚れたままの一枚の雑巾で、すすぎもせずに始めから終わりまで拭いてしまう。これではまるで汚れを均等にばらまいているようなものである。
 又坐禅についても同様で、まともに坐った経験などない。特に近頃は生活様式が専ら洋風で、食事も勉強もくつろぐ時でも殆どが椅子で、畳にきちんと坐ることなどない。そういう者に何時間も坐禅を続けさせる訳だから、彼らにしてみれば全く地獄の苦しみである。万事がこの様な次第だから、ともかく気が付いたと きに一つ一つ注意をしながら教えてゆくことになる。
 しかしこんな彼等でも、一年間程ガミガミ小言を言い続けていると、徐々に覚えて日常の事は何とか出来るようになってくる。
 だが修行はこれで終わりではない。これら日常のことが出来るようになった上で、禅の宗旨を究めてゆくという最も重要なことがある。しかし道を究めるといっても、心の内側の問題であるから、各人が好き勝手にしていたのでは測り様が無い。そこで 『公案』という問題を与え、それを解明してゆきながら徐々に心を練り鍛え、やがて悟りの境地に到らしめるわけである。
 叱られたり、足の痛さを克服してゆくのも決して楽なことではないが、公案で朝晩ギュウギュウのめに合わされるのは最も苦痛である。
 最初に何も知らずに入門してくるといったが、お経や坐禅を知らないというのは、本人が直ぐ自覚し、努力もするが、しかし道を知らない恥ずかしさを教えることは実に難しい。皆自分はそこそこ一人前だと思っているからだ。従って禅僧として、又人間として道を究めていない惨めさや悔しさ、到らざることへの恨みを、真実骨に徹して知ることこそが、まさに修行への第一歩となるのである。
 そこでこちらとしては、お前は何と至らぬ者なのかということを、朝晩の参禅を通して徹底的にたたき込む。言語の限りを尽くしていじめぬく。やがて当人に本当に気持ちが入ってくると、たとえ真冬の零下何度という酷寒でも素裸で坐禅を組むというような身を削る努力を始める。こう成ればしめたもので、道に到らざることの腑甲斐なさを自覚してきたきざしである。指導する者にとって、少し でも成長してゆく様子を見るのは楽しみなもので、それが励みになってこちらも頑張れるわけである。
 ところが実際にはなかなかこうはいかない。二年三年と言い続けてもこちらの思いは殆どの場合まず伝わることは無いと言っていい。修行の本当の魅力はあらゆる方便をしても尚伝わらないのが実情である。本人の自覚がないといってしまえばそれまでだが、或いはそれは私の指導者としての力不足なのかとも思う。
 ともかく一人でも多くの者が禅の宗旨を解し、修行に魅力を感じ、骨折りを続けていってもらいたい。そうすれば必ず彼等の道は自ずから開け、やがて悟りを開くことが出来る。しかしこれで終わるわけではない。直ぐに次の公案が提示され、又地獄のような苦しみを繰り返し乗り越えていかなければならない。
 これを十年二十年と積み上げてゆくことこそが我々の禅の修行なのである。
 以前にも誓えたが、それは丁度砂山を築くようなもので、止まればたちまち風雨にさらされ跡片もなく消えてしまうしろものである。寝だめ食いだめが出来ないと同様に修行だめ″ は出来ないのであって、若いときにこれこれの修行をしたといっても、今の修行なくしては何の価値もない。
 問題は今日どう修行しているかである。 漸く入れば漸く探し≠ニいう。何年経っても自ら到らざることを恨み、憂え、道を求め続ける清新な心と態度を決して失ってはならないのである。
 

 

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